『子供はわかってあげない』

 上白石萌歌の存在感が圧倒的だと思う。 
 というのは、主人公の朔田さんは高2の女子で水泳部なんだから、撮り方によってはグラビアみたいになりかねない。逆に、それを避けようとすると、原作がマンガなわけだから、アニメチックになりかねない。
 そのどちらにもならず、等身大のリアルさっていう緊張感のある表現を保ち続けたのは、上白石萌歌の存在感なんだと思う。それと、相手役の書道部の門司くんを演じた細田佳央太の存在感。
 田島列島の原作のあとがきによると、初稿段階(ネームというのか)を見た編集者が「甘酸っぱすぎて死にそう」と言ったそうだ。
 そういういい意味での甘酸っぱさは、アニメの画風には合わなかったろうと思う。なぜなら、アニメの絵は、長い年月、それこそ手塚治虫のむかしから、長い年月をかけて性的なコンプレックスを正当化するために闘ってきた、本質的には変態的な画風だから、その意味で、村上隆のフィギュア作品は、ジャパニメーションの本質を表現している。
 泳ぎながら笑っている、この朔田美波という女の子は、ジブリでさえ絵画化できなかったと思う。日本のアニメは、文化として受け入れられて長いために、表現が記号化してきている惧れがある。たとえば、「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」のあの髪は私は気になる。
 『アーヤと魔女』は、そういう絵の記号化に逆らってきたジブリが、とうとうジブリ自身を記号化したとも見える。CGにするのは単にコストの問題だろう。だとすれば、スタジオ4℃のセルルックアニメーションに一日の長がある。
 マンガを映画化するのに、アニメが最適解ではない好例がこの映画だろう。原作と比較すると、注意深いファイン・チューニングが施されているのがよく分かる。 
 監督は『横道世之介』の沖田修一で、思い出してみると、あの時の吉高由里子のお嬢さまぶりも見事な演出だった。
 原作を映画に細かくチューニングしなおすのが上手い人なんだと思う。削ったとこ、足したとこがいちいち納得できる。いちばん変更されているのは、豊川悦司の演じる父親だが、キャラクターの本質は変わっていないと感じられる。読みが確かなんだと思う。
 ホントは去年公開されるはずだったそうだが、コロナで1年遅れた。ともかく公開されてよかった。


www.youtube.com