貞明皇后に関する本2冊

 以前から疑問に思っていたことでこのブログにも書いたことがあった、日本のリベラルを考える時、旧民主党共産党ではなく、なぜか皇室が頭に浮かんでしまう。たとえば平成改元の際の、生前退位をめぐる綱引きなどを見ていると、保守とリベラルのビビッドな対立軸が、皇室と現政権間にあるように見えてしまう。
 それを、その時点ではパラドクスと感じていたのだが、貞明皇后に焦点を当てて考え直すと、それはパラドクスとは言えないのだと気付かされる。
 上にあげた2冊の本はそれぞれ貞明皇后についての小説と評伝。どちらも傑作とまでいうと嘘になると思うけど、力作には違いなく、貞明皇后の人となりとその時代について、色々と伝えてくれる。
 貞明皇后は、昭和天皇の母、そして、大正天皇の奥さんであるのだけれど、もう少し視野を広げてみると、五摂家のひとつ九条家の末裔であり、そして、貞明皇后の父・九条道孝は、明治天皇の先帝である孝明天皇の奥さん(と敢えて今風に言う)英照皇太后実弟だった。
 幕末、九条道孝公武合体派であったために、佐幕とみなされ朝廷から遠ざけられていた。にもかかわらず、のちの戊辰戦争では、奥羽鎮撫総督に任ぜられて奥州を転戦することになる。九条家が公家であることを考えると、薩長政府のいやらしさがみえてくる気がする。
 そのはるか後になるが、貞明皇后は、昭和天皇の弟、雍仁親王の妃に、会津藩主だった松平容保の孫にあたる「節子」を選んだ。「節子(せつこ)」は貞明皇后自身の名前「節子(さだこ)」と漢字が共通していたために、「勢津子」と改めるが、その「津」の字は「会津」から取ったものだった。
 実は、大正天皇の4人の皇子のうち3人の妃が旧佐幕派から嫁いでいる。このことから、薩長政府と天皇家の関係が読み取れる。
 そもそも戊辰戦争大義があったとは到底いえない。江戸無血開城の後に、なぜ戦争を続ける必要があったか。言うまでもなく、薩長軍の暴走でしかなかった。戊辰戦争はその後に日本陸軍が繰り返す無軌道な暴走の雛形だった。
 安倍政権にまで続くそうした薩長政府のやり方に対して、天皇家は、わずかにできる抵抗として皇統の継承に旧佐幕派の血筋を残したと言える。
 そのキーマンと言える人が貞明皇后なのだった。大正天皇は、病を得て早世したために、今から眺めると印象が薄いが、皇太子時代から、日本全国を行幸して、気さくな皇太子として国民に人気があった。大正デモクラシーの空気は、そうした大正天皇の人がらと無関係ではなかった。
 また、貞明皇后は古来から伝わる皇室の伝統を大事にした。明治政府は、皇室だけでなく日本の伝統や歴史を自らの意にそうように捻じ曲げようとしたが、そうはっきりと意図したかどうかわからないものの、貞明皇后の存在は、薩長政府のそうした「歴史改変」に図らずも抵抗する拠点になっていたように見える。
 皇室の養蚕は古くは日本書紀に見えるが、近代のいわゆる「皇后御親蚕」は明治4年昭憲皇太后によって始められ、歴代の皇后に受け継がれてきた。現在の紅葉山御養蚕所は貞明皇后大正3年に新設されたものだ。
 皇室の伝統とは本来こうしたものだった。昭和天皇像は、薩長政府がでっち上げようとした「軍神」のイメージの戦前と、大正天皇の持っていた気さくな天皇の戦後とに引き裂かれて見える。
 日本会議が主張している「自主憲法」は、何のことはない、つまり、もう一度、皇室を薩長政府の意のままに掌握したいという願望にすぎない。
 貞明皇后に関して、もう一点、ハンセン病患者に対する援助が、彼らの隔離政策を助長したと言った批判があるが、隔離したのは当時の政権なのであって、その隔離された患者たちに私費を切り詰めて援助していた貞明皇后に、あたかも隔離の責任をなすりつけようとするかの言説がどこから出てくるのか、分かりやすすぎる。その論理展開は明治維新以来何度も見てきたものだからである。
 こういう記事が話題になっている。

president.jp

 明治維新が正義だという価値観を捨てる時がきているだろう。明治政府の政策は、幕末に急死した阿部正弘の政策をほとんどそのまま受け継いだにすぎないとも言われている。
 「戊辰戦争の暴虐は正義で、太平洋戦争の暴虐は天皇の戦争責任だ」は、あまりにも都合が良すぎないか?。
 皇室も神道薩長政府の呪縛から解き放つべき時が来ている。