『アダマン号に乗って』

 アダマン号と言っても、セーヌ川に浮かぶ船みたいに見える水上建設なんだけど、精神病院のデイケアセンターで、「制度精神療法」ってのが行われている。「病院という場が病気にならぬようにしなければならない」というスローガンで実践されているものだそうだ。
 映像を見ていると、誰が患者で、誰がスタッフで、誰が医者かわからない感じ。
 患者さんが絵を描く場面を見ていて思い出したのは『破片のきらめき』という映画で、それは平川病院というところで、安彦講平という方が実践しているアートセラピーを描いたドキュメンタリーだった。ヴズール国際アジア映画祭で、観客賞、ドキュメンタリー最優秀作品賞を受賞した。
 アダマン号はあれをもっと広くいろんな行動に押し広げた感じ。日本と違うのは社会に根付いている感じがするところ。もちろん、運営は大変なのかもしれないが、フランスの場合、国がこういう活動を積極的に援助しようとするイメージがある。
 というのは、ヴァンサン・カッセルが主演した『スペシャルズ! ~政府が潰そうとした自閉症ケア施設を守った男たちの実話』を見たからで、なんだかんだ言っても、フランスではこういう施設を残そうという社会全体の意思が動いていく。潰そうとしたけど結局つぶさない。
 日本だと、たとえば、これは精神病ではなくハンセン病だが、映画『あん』に描かれたように、なんだかんだ言って、隔離していく方向に動く。旧優生保護法下で行われた強制不妊手術をめぐっては、患者と政府の間でいまだに裁判が争われている。
 ちなみに、ハンセン病患者に関して、大正天皇の奥さん、貞明皇后がやり玉に挙げられることがあるが、これは、役人のいつもの手口で、自分たちがやらかしたことを、天皇家に責任を押し付けようとするのだ。
 貞明皇后は私財からハンセン病患者の施設に寄付をしていた。お召し列車が施設の近くを通る時はわざわざ停車して、患者たちと交流した。それをいかにも「貞明皇后ハンセン病患者の隔離を推進した」かのようにいうのが、戦争責任を天皇に押し付けるやり方とあまりにも似ていてうんざりする。これは右も左もなく単に「汚ないやり口」と感じるのがフツーの感覚だと思っている。
 これを機に、未見だった『精神』(想田和弘監督)を観てみた。『精神0』の方は観てたのだけれども、日本のこの分野は結局、個人の善意に支えられているのかと思うと悲しくなる。
 入管法改悪反対デモの時にアジテーターの学生さんが杉原千畝について「杉原千畝しか勝たん」とアジっていたについては、さすがに後に続けなかった。つうのは、その名前をここで持ち出すと、ブレる気がしたし、通りすがりの沿道の人たちにはちょっと伝わらないと思った。
 確かに、杉原千畝は日本の外務省からは徹底的に無視、または、冷遇されてきたわけで、本心では杉原千畝をいまいましく思っている外務省と、今回の入管法改悪はつながりまくっているのであるが、デモで歩きながらそれを言っても。
 何が言いたいかというと、日本人が誇りに思っている人を日本政府は苦々しく思っているということ。国会前の集会で若い女性が叫んでいた「入管は何から何を守っているのか」という疑問ほど日本をよく表している言葉もない。
 日本でもフランスでも、個人のレベルでは良きことが実践されているのだけれど、政府のレベルになると真逆な対応になる。その上、日本人は長いものに巻かれる。昨日、佐久間さんのラジオで言ってたんだけど、音楽ランキングの世界でも、日本以外の国では、順位が頻繁に入れ替わるのに、日本では上位ランクになればなるほど順位が固定化するそうなのだ。
 羊、とか、メダカとかそういうのに似ていて、役人にしてみればこんな楽な国民もないのだろう。
 役人が人を殺せば、アメリカではブラックライブズマターのあの運動になるのだが、日本ではどうだった?。ジョージ・フロイドとウィシュマさん、同じように役人が人を殺したのに、この国民の反応の差は何?。
 どっちかというと、わたしたちが難民申請したくなる。

 ちなみに『アダマン号に乗って』はベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した。


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