日本語脳、養老孟司、『愛なのに』の更なるネタバレ

 養老孟司が日本語脳について話しているYouTubeを見た。
 ひとつの文字にふたつ以上の訓みが存在する言語は世界に例がないと、言われてみれば確かにそうかもしれない。そのために日本人の言語脳には独特のクセができたという。
 それで思い当たったんだけど、あの「天皇の赤子(せきし)」って言葉。いつ思い返しても背中に怖気が走る。あの言葉の気持ち悪さは確かに日本語の特殊性に依っている。
 「天皇の赤子(あかご)」と訓んでいれば誰でも「んなわけないだろっ!」と突っ込んで終わりなのだ。その「赤子(あかご)」を「赤子(せきし)」と読み替えるだけで、何か別の回路が働いて、まともなことを言っている気がしてしまうおそろしさ。そういう子供だましを許す構造が脳のクセにあったとしたらやはり恐ろしい。
 他にも、正岡子規が故郷を離れて上京するという時に、学友を前に打った弁舌に「国会」を「黒塊」になぞらえたというのがあった。それを聞いて皆涙したという。
 詩人らしいとも言えるが、時代の変革期に若者が民主主義について語る弁舌としては余りにも中身がない。この言語をめぐるクセが、日本に政治を根付かせていない可能性はある。
 堀田善衛ギリシャの郵便局に並んでいると、おばさんが来て「ultima?」と尋いてきた。堀田善衛の頭の中では「ultima」は哲学用語なので面食らったが、おばさんは「あんたが列の最後尾か?」と尋ねただけだった。当たり前のことだけど、ギリシャの哲学者たちは自分達の日常の言葉で哲学していた。そのことに今さらショックを受ける日本人が異常なのだ。

 『愛なのに』の主人公に求婚する女子高生が、「これで最後にするから手紙に返事をくれ」といって白紙の便箋を手渡す。そこで主人公は自分の曖昧な気持ちを言語化する必要に迫られる。
 と同時に、長年の片思いの相手と、愛のない肉体関係を結ぶことになる。観念的だった主人公の恋愛が突然に肉体化する。
 書き上げた手紙を女子高生の両親が見つけて乗り込んでくる。両親はその手紙を「キモい」としか言わない。手紙の中身をまともに受け止められないのだ。たぶんこの両親は思いを言語化したことがない。そのため、思いを言語化できる他者を「キモい」と感じる。
 父親を殴ってしまった主人公に翌日また女子高生が手紙を持ってくる。何か言いかける主人公に「(両親のことが)私たちに何か関係あります?」と言う。思いを言語化しない両親が娘とコミュニケーションを失っていることがわかる。
 確かに、思いを完全な形で言語化することはできない。しかしそれを恐れて思いを言語化しない人は、無個性な言語(たとえば「キモい」、たとえば「天皇の赤子(せきし)」)に自己表現を明け渡すことになる。無個性であるからそれは集団化しがちで、それがいじめにつながる。
 思いを言語化しないかぎり、人は自分自身でいられない。ひとつの文字に複数の訓みがある言語のおかげで、私たちの言語は日常の地平から浮き上がってしまう。「直す」を「改善」と言い換え、さらに「innovation」と言い換えることで、何かを言った気持ちになる。そして言葉が個人から離れ、集団化し、非人間的な残虐行為も許してしまうことになる。いったん「皇軍」と名付けられると何でも許される気がする。
 単に「思考停止」というより、思いを言語化しなければならない時に、訓読みから音読みへの変換に逃げてしまうのだ。中国や西洋という先進の文化に依存してしまうならまだしも、言語の二重性の中に誤魔化してしまうのだ。
 トランプとともに発生したかに見えた「alternative fact」は、実は、日本語に古くから根付いた宿痾だったことになる。


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