『心と体と』

 是枝裕和監督の『万引き家族』は、どうやらメガヒットになりそうな気配だが、『万引き家族』がカンヌのパルムドールなら、イルディコー・エニェディ監督の『心と体と』は、ベルリン映画祭の最高賞、金熊賞を受賞したのだから、もうちょっと脚光を浴びてもよいはずと思うが、どういう事情か、何かそんなに上映館も多くなかったようだけど、たぶん、牛の屠殺場面にビビったんだろう。でも、ふだんから食ってる牛肉だし、食肉加工場で牛を処分してる場面をあれこれ言うのは違うと思う。
 主人公の男女が食肉加工場でで働いている意味について、イルディコー・エニェディ監督がインタビューで語っているが、しかし、その意味は、言語的であるよりはるかに映画的で、映像の持っている衝撃は強い。
 忌野清志郎の「スローバラード」の男女は、車の中で一夜を明かし、カーラジオから流れるスローバラードを聴きながらよく似た夢を見る。「うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき」。
 男女が同じ夢を見るは、それ自体美しい幻想である上に、この映画では、その夢で野生の鹿になっていることが、あの屠殺場での牛たちの現実と、有無を言わせぬコントラストをなす。
 大人の恋愛を描くのが難しい時代だろうか?。時代のせいでもないのかしれないが、『ボヴァリー夫人』でも『ダーヴァビル家のテス』でも『アンナ・カレーニナ』でも、男と女が登場すれば恋愛するのが当然と、少なくともその前提について、作家があれこれ頭を悩ます必要のない時代てのが昔はあったらしいのに、今っていう今は、恋愛の動機づけ自体がとても扱いづらい厄介な代物になっている。
 恋愛はしあわせな幻想など、ありふれたことを知ったとして、それで、人生の達人になるわけもなく、ただ味気ないその辺の大人というだけだから、それが大人の恋愛映画が成立する何の妨げにもならないのだけれど、それでも、さすがに「壁ドン」映画なんかでは、まるで女性向けAVでも見せられている気分になる。『しあわせの絵の具』のインタビューでイーサン・ホークが言っていたように、「大人の恋愛を描いた作品は本当に少ない」。
 男性の方を演じているゲーザ・モルチャーニって人は、本職が編集者で今回が初めてのお芝居だそうだ。この人と相手の女性を演じたアレクサンドラ・ボルベーイのキャスティングが素晴らしく、その時点でもう勝っていた気がする。
 絵本のように綺麗なところと、ひどくコミカルなところのバランスが絶妙。この感じは、橋口亮輔監督の『恋人たち』なんかと似てる気がした。
 イルディコー・エニェディ監督は、1989年に、カンヌで新人賞、1999年に、ロカルノ映画祭で審査員特別賞を獲得した後、しばらく撮れない時期が続いたそう。20年近い期間だから、それにしても長すぎるが、『in treatment』っていうアメリカのテレビドラマのハンガリー版を撮影するチャンスがあって、そこからまた道が開けたそうだ。
 『in treatment』は日本では公開されていないけれど、ガブリエル・バーンがセラピストを演じる、アメリカでは人気のドラマだそうだ。食肉加工場では、定期的に心理療法士のカウンセリングを受けることになっているそうなのも興味深かった。キリスト教徒は牛を殺すのは平気だと思ってたので。

『パンク侍、斬られて候』ネタバレとまでいえない

 石井岳龍監督、宮藤官九郎脚本、綾野剛主演『パンク侍、斬られて候』は、今までのところ、今年観た日本映画のNO.1かもしれない。小津安二郎監督の紀子三部作とどうかと言われると困るが、あちらは封切りが今年じゃないという逃げが効くし、『万引き家族』と比べてどうなんだと言われると、今観たばかりという衝撃もあり、今はこっちの方を推したい気分。
 『万引き家族』で、是枝裕和監督は、樹木希林安藤サクラ松岡茉優を「各世代のモンスター級の女優さんを集めた」と語っていたが、『パンク侍、斬られて候』の男優さんたちも、なかなかすごい布陣。主演の綾野剛に、國村隼(『哭声』観ました?)、豊川悦司浅野忠信永瀬正敏染谷将太東出昌大、渋川清彦、若葉竜也、全員の個性が粒立っている。
 そして、やはり、これは宮藤官九郎の力業だと思うんだが、映画にしろ小説にしろ、ナレーションの問題てのがあって、あるシーンがあり、人物が登場し、その人がセリフを言う「」の前後にナレーションがあるとして、その声の主の視点がストーリー全体を見通している目であるという意味で、それは誰の声なのかがすごく重要になってくる。
 たとえば、青山真治監督の『共喰い』のナレーションは光石研だった。主人公は菅田将暉少年であったから、その父親役の光石研の声がナレーターなのは、その後のストーリー展開を考えると、衝撃的というか、ストーリーに遠近感と深みを加えていた。
 この映画は、脚本の宮藤官九郎なのか、監督の石井岳龍なのか、あるいは原作の町田康なのか知らないが、ナレーションとセリフ、ナレーションと役者の所作が、分離したりシンクロしたりする(と抽象的な言い方しかできなくて恐縮だが、観てもらうと「これのことか!」と分かることだが、ただ、さまざまなスタイルで反復されるので、いちいちを書いていたら、シナリオ採録みたいになってしまう)。この仕組みがいったん世界を解体することで、この摩訶不思議な世界に私たちを引き込んでいる。
 たとえば、文楽のことを考えてみても良い。文楽でお芝居をするのは人形だが、人形遣いも観客に見え、セリフを語る大夫も観客に見え、セリフの書いている本までまる見えなのだが、それが観客の観劇体験を損ねることにならない。セリフと所作を分離抽出することで、むしろ、それぞれの純度が増す。
 猿回しがキーアイテムとして使われているが、それは間違いなく偶然じゃなく確信的である。東出昌大の堅物の殿様が猿回しという芸を全く理解しない。その晩に、豊川悦司國村隼の2人の家老が和解する、その時の、ナレーションとセリフのシンクロするシーンを是非みてもらいたい。
 また、浅野忠信の演じるカルトのカリスマの、『淵に立つ』とはガラリと変わった怪演を支えているのが、セリフは浅野忠信本人ではなく、顔を隠した2人の従者から棒読みで語られる、その構造である。
 セリフそのものもすばらしい。「パンク侍」っていってる時点で時代考証を考慮するつもりがないのは明らかだが、奇を衒った印象はない。むしろ、時代劇がその最初から内に抱えているキッチュさを思い出させてくれる。
 『KUBO』や『犬ヶ島』といった、海外の作家が日本を舞台にとったファンタジーの秀作があいついで公開されたが、日本を舞台にするならここまでやらなきゃねと、ひそかに納得してしまう。
 今の時代に対する風刺ってことは別にないと思う。そうとろうと思えばとれるだろうけど。そんな白けたパス回しを観客に見せる石井岳龍監督ではなさそう。ただただ面白い。
 脚本の宮藤官九郎は、週刊プレイボーイみうらじゅんとの対談を連載している。今週は、ひょんなことから、この映画の話題になってて、「どれくらいヒットするかはわからないですけど、でも公開前から勝ってるんです、あんな映画撮っちゃった時点で(笑)。」f:id:knockeye:20180701103738j:plain

『ゲティ家の身代金』

 リドリー・スコット監督は、強い女をセクシーに撮るについての、深い欲求があるんだと思う。
 今回の場合は、それが、息子を誘拐されたバツイチ女盛りの母親で、ミシェル・ウィリアムズが演じている。今までこの女優さんをセクシーな目で見たことがなかったんだけど、リドリー・スコットが演出したせいだと思う、けしてわたしの体調ではないと思うが、ひどくエロティックに見えた。とくに、そういうのを狙ったシーンがあったわけでもないのに、たぶん、女性が窮地に追い込まれつつ、絶望的な戦いに身を焦がすってことに、無上の喜びを感じるんだと思う、わたしではなく、リドリー・スコットが。
 それに、もうひとつ、メロンに生ハムを乗せるような絶妙な味わいを添えているのが、クリストファー・プラマーの演じたごうつくじじい、ジョン・ポール・ゲティ。大金持ちであるにもかかわらず、誘拐された孫の身代金要求額1700万ドルの支払いを断固拒否。最終的に、税控除が認められるギリギリまで値切ろうとした挙句、税控除が認められない部分は、息子に利子をとって貸し付けた。だから、本人は1円、1ユーロ、1ドルたりとも損してない。
 だから、誘拐犯も、金持ちだからといってやみくもに誘拐しても、孫がひとりくらい死のうが生きようが何でもないし、それを世界中から批判されようが、痛くもかゆくもないってレベルの金持ちになると、かえって面倒なことになるって教訓になるだろう。
 金を奪い合うのは貧乏人同士ですることで、金持ちからは金を奪えないのだろう。
 誘拐された孫は、いったん自力で脱出するんだが、警察に駆け込むと、警察官からマフィアに連絡がいって、連れ戻されてしまう。
 それで思い出したけど、確かに、昔は、イタリアってこういうイメージだった。イタリア、韓国、NYなんかは、婦女子が迂闊に出歩けない、怖いイメージだった。いつの間にか、そういうイメージじゃなくなっているのが不思議な気がする。
 今、イタリアというと、食べものがおいしくて、老舗のブランドがいっぱいあって、オシャレで、気さくでってイメージ。
 どっちも実際には知らないんだけど、パブリックイメージに支配されてしまっていることに、改めて気づかされる。
 ジョン・ポール・ゲティの役は、もともとケヴィン・スペイシーで撮り終わっていたそうなんだが、例のme tooがらみのゴタゴタで、急遽、クリストファー・プラマーで撮り直した。却ってよかったって気がする。ケヴィン・スペイシーは、若すぎ、だてすぎって気がする。『アメリカン・ビューティー』の印象が強いのかも。でも、メロンにのせる生ハムとしては、クリストファー・プラマーの方がコントラストが効いていると思う。クリストファー・プラマーは、最近では『手紙は憶えている』がよかった。
 このクリストファー・プラマーの代役騒ぎがプロモーションとなった一面はあると思う。その意味では、こないだの『家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています』の大谷亮平も、小出恵介の淫行騒動で急遽代役に立ったそうだった。あの映画は、シナリオの詰めが甘いと思ったけど(mildな言い方をすれば)役者さんたちのお芝居はよかった。大谷亮平もそうだけど、安田顕浅野和之品川徹。他の人が悪かったわけではないけど、演技でカバーできる限界もあるから。

『東京物語』4K

 小津安二郎監督の、いわゆる紀子三部作の掉尾を飾る『東京物語』デジタル修復版を、角川シネマ新宿で。しかも、香川京子トークショーも観られた。
 紀子三部作といいながら、紀子という名前の主人公を原節子が演じているだけで、紀子は同一人物ではない。『晩春』での紀子は、鎌倉で大学教授の父と二人暮らしをしている。『麦秋』の紀子も鎌倉で暮らしているが、両親と兄夫婦と二人の甥っ子と暮らしている。そして、この2人の紀子は映画の最後に結婚する。
 『東京物語』の紀子は、戦争未亡人と呼ばれた人たちの1人なのだと思う。戦争に行った夫が帰ってこないまま、戦後もう7年の歳月が過ぎ去った。亡夫(と言っていいかどうかわからないが)の両親が、笠智衆東山千栄子で、東京で暮らす長男(山村聰)、長女(杉村春子)を尾道から訪ねてくる、その東京滞在の顛末が映画の主筋になっている。
 憎悪と言っていいまなざしでカメラを睨みつける『晩春』の激しい紀子はここにはいない。『東京物語』の紀子は、結婚前に勤めていた職場に戻って、東京の小さなアパートで一人暮らしをしている。
 開業医をしている長兄や、美容院を切り盛りしている長女は日々の忙しさに追われているためもあり、実の親子の遠慮のなさもあって、両親をぞんざいに扱ってしまうが、紀子は、亡夫への思いもあるだろうし、義理の娘の遠慮も手伝ってか、何くれと細やかなホステスぶりを発揮する。
 そんな紀子に、東山千栄子笠智衆も、いい人が見つかったら遠慮しないでいいと言うのだが、紀子は、ひとりが気楽でいいし、今のままでいいと答える。この辺りは、『晩春』の紀子と似ている。いまはそれでいいかもしれないけど、歳をとったら・・・という東山千栄子に、
「わたし歳をとらないことにしたんです」
という紀子の台詞はすごいと思った。
 紀子の時は止まり、止まった時を生きている。久しぶりに訪ねてきた実の親にあまりかまってやらない長兄夫婦や長女夫婦は、一見薄情なように見えるが、彼らの時は止まらず動き続けている。紀子だけが老夫婦と、止まった時を共有している。もし、夫が生きていて、忙しい日々を送っていたら、紀子の態度が、長兄や長女と違っていたかどうかわからない。
 老夫婦が尾道に帰った直後、東山千栄子の演ずる母が危篤になった知らせが届くが、その電話を受けたあとの紀子の表情は、『晩春』や『麦秋』の紀子にはけして見られなかったものだろう。自分が口にした科白の恐ろしさに紀子自身気がついていないと思う。時を止めたまま生きる長い倦怠が、所在なげな表情に刻印されている。
 『晩春』、『麦秋』、『東京物語』と続けて観て、笠智衆はもちろんながら、杉村春子の見事さには感嘆した。『晩春』の笠智衆は紀子の父、そして、杉村春子笠智衆の妹、紀子には叔母にあたる。『麦秋』の笠智衆は紀子の兄、杉村春子はご近所のおばさんだが、最後に紀子の義母になる。そして、『東京物語』の笠智衆は紀子の義父で、杉村春子は義理の姉。叔母さんとご近所さんと義理のお姉さん、この距離感の正確さがすごいと思った。
 それは、原節子に対してだけでなく、笠智衆との間合いの取り方も絶妙。笠智衆の演じる父親が東京で旧友と会って、つい飲みすごして帰ってきたときの杉村春子の生き生きとした芝居は、今、あれができる人がどれだけいるのか、もしかしたらいないんじゃないかって気がする。
 母親の葬式のあとの御斎でのハツラツぶりもすごい。もちろん、シナリオもすごいのだけれど、杉村春子って女優があったればこそだと。まさかアドリブじゃないだろうなと思うほどだ。
 70代の老人を演じている笠智衆はこの時まだ50になっていない。調べてみると、今年で言えば、さまぁ~ずの2人と同い年。『麦秋』では、紀子の兄で、しかも、そのとき東山千栄子笠智衆の母親だった。変幻自在かと思ってしまう。
 紀子がいよいよ尾道から東京に帰るという朝、義父から義母の形見に古い時計を贈られる。ここからの展開についてはポール・オースターが『闇の中の男』で詳しく解説していた。
 時計を贈られたとき「わたしはずるい」という紀子の頭の中にあるのは、杉村春子大坂志郎の義母の死に対する態度のことだろう。下世話かもしれないけれど、正直には違いない。長女(杉村春子)を非難する次女(香川京子)に対して、紀子は弁護する側に立つ。
 小学校で教師をしている京子が腕時計を見て、窓の外に視線をやると、紀子が東京へ戻る汽車が走り去るところ。紀子は形見の懐中時計を開けてみる。紀子の時が再び動き出す予感。
 ラストに笠智衆に慟哭を要求したという『晩春』の、深い喪失感と再生への願いは、ここではもう遠い過去だ。紀子の決断が清々しい『麦秋』が、個人的には一番好きかもしれないが、戦争の傷跡が日常へ回収されていく『東京物語』の渋いとも苦いともつかない、人の世のおかしみに満ちた味わいも忘れがたい。
 香川京子トークショーで語っていたが、当時すでに巨匠だった小津安二郎とまだ新人の香川京子が言葉を交わすことはほとんどなかったそうだが、あるとき、「ぼくは世の中のことには関心がないんだよね」とつぶやいたそうだ。
 サワコの朝に出ていた山田洋次によると、彼が若い頃の映画人は「小津じゃダメだ。黒沢でなきゃダメだ」とみんな言っていたそうなのだ。山田洋次自身もそう言っていたというからには、そこに幾分かの懺悔の思いがあるのだろう。
 紀子三部作は、たしかに、反戦映画とは言わないだろう。だが、声高に反戦を叫ぶ映画が戦争の現実を写しているとは限らない。小津安二郎のこの三部作には、ひそかに傷ついたひとたちとその再生が描かれている。

鎌倉の集藍

 朝のうちの雨が、映画館を出ると晴れ渡っているのみならず、ちょうど今晴れたところです、みたいな風が肘のあたりをすっと撫でていったので、ちょっと予定を変更して鎌倉に集藍を見に出かけた。
 鎌倉の集藍というと、明月院ってことになるのだが、あそこはこの時期人混みが過ぎるに決まってるので、そこはあえて外して東慶寺を訪ねてみた。その頃には夏みたいな日差しが、朝のうちの雨を回収にかかっているようだったが、境内に入ると木々が鬱蒼としているせいでさっと涼しくなった。雨上がりの木陰に集藍はよく似合った。

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 小さな地蔵には、集藍でなく、半夏生が供えてあった。

 そのあと、浄智寺から



化粧坂切通しを歩くのがいつものコースだが、雨上がりにあのぬかるみは避けたいので、すこし遠回りして亀ケ谷坂の切通しに。思いがけず、途中の道の集藍が盛りで、こっちで正解だったなと思ったんだが、

亀ケ谷坂の切通しは、昼なお暗いって表現がぴったり。

奥の方で街灯が灯ってるのがわかるだろうか。写真では通る人の顔も見えないと思う。ホントは人が3人写ってます。
 でも、その暗さに却って趣があって、坂の背を過ぎたあたり、自生の集藍が木漏れ陽を浴びていた。

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 寿福寺は、鎌倉駅に向かう道すがらなこともあり、まるで定点観測のようによく通う。雨上がりのこの日は、長い参道が水気を含んだ空気に白く霞んでいた。

『万引き家族』のteach-in

 小津4Kの『東京物語』に香川京子が舞台挨拶に来ていて、小津安二郎監督に「僕は世間のことには関心がないんだよね」と言われたという思い出を語っていた。それを聞きつつ、でも、それは、小津安二郎監督の演出だったかもなと思ってみた。というのは、当時、香川京子は『ひめゆりの塔』に出たばかりで、「戦争とか平和の大切さとか、社会人の1人として考えなきゃいけないと自覚したばかりでしたから、その言葉がどういう意味なのかしら?と心の中で思っていました」だそうなので、『東京物語』で末っ子の京子(香川京子)がそんな風に考えているってことは、重要だったかもしれない。
 映画監督ってのは、カメラの前で何かが起きるのを待ち続けている人たちで、まるで、野村克也が打者にささやくみたいな、そんなことくらいはやりそうなのである。『東京物語』は香川京子にとって初めての小津作品で、監督と言葉を交わすことはほとんどなかったというのに、そんなひと言をつぶやくってのはどうもあやしい。
 是枝裕和監督の『万引き家族』は大ヒットしているに違いない。というのは、このブログで『万引き家族』について書いた記事だけアクセス数が0ふたつ違う。いつもと変わらず大したことは書いてないのにこんなことは初めてで『万引き家族』の動員力にびっくりしている。
 是枝裕和監督が、6月21日、TOHOシネマズ六本木ヒルズで行われた『万引き家族』のteach-inイベントに参加したって記事が映画.comニュースに出てた。
 その中で興味深かったのは、撮影が進むなか、安藤サクラが監督をスタジオの隅に呼んで「私は1度も自分のことを母ちゃんとは言わないし、(子どもたちに)言えともしない。信代は、そのことをどう思っている?」と質問したのだそうで、その時点では、はっきりした返答ができなかったそうなんだけど、それが、後半の池脇千鶴とのあのシーンの演出につながっていったわけだった。
 是枝裕和監督の映画では、こんな風に撮影の途中でシナリオが変わっていく場合がよくあるらしい。
 西川美和の『映画にまつわるXについて』に書いてあったが、「ワンダフルライフ」という是枝裕和監督の映画の現場で、まだ駆け出しだった西川美和が、死後の世界へ旅立つところを演じる一般公募のおばあさんたちの持つ履歴書、小道具なんだが、その「死因」という項目を「なくすわけにはいきませんか?」と提案した。是枝裕和は、しばらく考えた後、その項目を消して、「君が今感じた違和感は、これからものを作っていくと、どんどん薄れていくだろう。でも、その感覚を失わないでもらいたい」と言ったそうだ。
 映画監督について私たちが抱いているイメージは、このエピソードに対極的な問答無用の態度だったりするんだが、実際には、それで物事が運ぶってことはないだろう。ノーラ・エフロンが「映画監督は、撮影というパーティーのホストみたいなもの」と言っていたのを思い出す。
 『ワンダワフルライフ』の頃から、ものづくりの態度が変わらず、そして、その結果が今回のようなメガヒットにつながっているについて感銘を受けざるえない。

『晩春』反戦映画としての

 新宿ピカデリーで小津4Kが始まっている。一ヶ月ほど前に観た『晩春』だったけれど、あの時はちょっと傷みすぎていたので修復されたものをもう一度観た。
 昭和24年に封切られた『晩春』は、正確に言えば、日本映画ではない。私たちは昭和25年に日本が独立を果たすのを知っているが、この時はまだ日本は文字通りアメリカの属国だった。マイル表示の道路標識が映されるのも、能楽やお茶席と言った日本的な文物が用いられているのも、もちろん偶然であるはずはない。 この映画に登場する人たちは、戦争に負けて、他国の属国となった国の人たちだということを易々と忘れてはならないと思う。
 小津安二郎自身、シンガポール終戦を迎えて、復員したのは昭和21年の2月だった。それから3年しか経ていない『晩春』で原節子が演じている紀子は27歳、徐々に恢復しつつあるらしいが、戦中戦後の一時期には健康を害していたことが、笠智衆の演じる父親と、杉村春子の演じる叔母の会話からうかがえる。
 笠智衆が紀子について語る「戦争中に無理に働かされたのが応えて・・・」というセリフにはヒヤリとさせられる。日中戦争が始まったのは1937年なので、1949年に27歳の紀子は、青春時代のすべてを戦争に奪われたと言っていいと思う。
 『晩春』は、紀子の、父親に対する近親相姦的なコンプレックスを強調されることが多いのだけれど、紀子が「今のままでいたい」というその今が、戦争で得た病いからようやく恢復しかけた時には、婚期を逃したと世間に思われる歳になっていた、そういう今だということを思うべきだ。
 紀子と同じように、戦争で青春を失った多くの人たちがいたはずで、『晩春』の舞台になっている1949年には、それこそついこないだまで、神国だ、神風だと叫んでいた同じ連中が、戦争などまるでなかったように、アメリカの占領下でよろしくやっている、そのことに、紀子がわだかまりを抱いていなかったとは思えない。
 紀子が1949年に27歳だったとすると、吉本隆明のひとつかふたつ上、ほぼ同世代である。糸井重里との対談で、吉本隆明は、敗戦の時の挫折感は「とんでもなく別ものだ」と語っている。やがて、そんな挫折感の揺り戻しが来て、他人の悪いところばかり見えていたのが、自分の悪いところばかり見えるようになる、全体的で大きな挫折感が、個人的で部分的な挫折感に変わっていったというのが吉本隆明の場合だったそうだ。

 これは、表立って語られていなかったとしても、当時の世代感情として共通する何かがあったのは間違いないだろう。そして、父親も、戦争を引き起こした世代のひとりとして、その責任を感じている。東京裁判が結審して、A級戦犯が処刑されてから、まだ一年も経っていない。もちろん、笠智衆が演じている父親は、映画の時点で大学教授であるのだから、戦時中、戦争に協力的であったりはしていないのだろう。しかし、そういうこととは関わりなく、敗戦国の父親の、娘に抱いている悔悟の念は、今の私たちが想像するよりもはるかに痛いものがあったはずだろう。
 父親が後妻をもらうと知った時の、紀子の表情は、原節子が美しいだけに、凄まじいものがあり、特異にさえ感じられる。それは、その感情が、もはや紀子の個人的な感情ではなく、世代感情であり、それはもっと古い世代なら世界苦と呼んだものだからだろう。それは、本来なら紀子が個人で抱かなくてもよい感情のはずだった。
 親離れできない娘の父に対する嫉妬ではない、取り残される、忘れ去られる、喪われる世代の怨念に近いものを、その顔は思わせる。能を観た帰り、紀子は父と別れて、離婚して職業婦人をしている友人のアヤを訪ねて仕事の相談をしていることに注意してみたい。
 当初、父が紀子の結婚相手に考えていた、大学の後輩である服部と紀子が浜辺で話すタクアンの話だが、紀子は自分が粘着質な性格だと語っている。でも、それは、何についての思いなのか?。のちに、服部が紀子を巌本まりの演奏会に誘うが、紀子は「奥さんに悪いから」と断る、その時、服部が「タクアンですか?」と言うのだ。
 演奏会の服部の隣は空席になっている。フィアンセもそこにいないと言うことは、服部は寸前まで紀子を待っていたってことになるだろう。紀子の服部に対する拒絶の心理の奥に、エレクトラコンプレックスなどではなく、もっと深い絶望があると私には見える。
 お見合い相手がゲーリー・クーパーに似てるかどうか、紀子とアヤが語る場面がある。つまり、紀子個人の位相では、お見合い相手が気に入っているとわかるコミカルなシーンだが、それでも、その心理のもっと深いところで、紀子を押しとどめようとする思いがあり、それがこの映画のテーマであり、この父娘のテーマでもある。
 紀子の結婚を前に、親子水入らずで出かけた京都旅行の夜に、紀子は父に問う、なぜこのまま朽ち果ててはいけないのか?、絶望に身を任せていてはいけないのか?。
 父にとっては辛い問いである。その絶望に自分も責任があると感じているからだ。だが、答える。絶望は間違っている。苦しみを選ぶことは間違っている。幸せを選びとらないことは怠惰だと。
 父を捨てていきたくない、たとえ、父が再婚したとしても、父のそばにいたいという紀子は、たしかに子どもじみて「わがまま」に聞こえる。しかし、終戦を境にした無節操な価値観の変化を目の当たりにした紀子の世代の人たちにとっては、それは単なる「わがまま」ではなかったと思うし、そういう紀子に共感を抱く人たちも多くいたと思う。今でも、あのシーンでは客席にすすり泣きの声が聞こえる。
 当たり前すぎて誰も気がつかないが、人が未来を信じられるのは、それが過去の延長だと無意識に信じているからだ。過去の価値観が根こそぎ失われた紀子の世代の人たちが未来を信じられないのはむしろ当然であり、そして、その絶望には、父もまたひそかに共感しているからこそ、その絞り出す言葉に説得力がある。けして理路整然としているわけではないが、ただ、思いの強さだけは伝わる。よく聞くと、自分の人生はもう終わりに近づいている、しかし、お前はそうじゃないと言っているだけなのだ。
 床の間の花の活けていない花瓶について、それが何を意味するか論争があるそうなので、ここでは、反戦映画としてのその意味をこじつけてみる。花瓶は1度だけでなく2度映される。それは、1度目は失われた過去への思い、2度目は、何の展望もない未来への紀子の不安を映していると言えるだろう。
 笠智衆の回想によれば、ラストは彼の号泣で終わる案もあったそうだ。娘を嫁に出しただけで、号泣するのは、確かに唐突に思える。しかし、戦争そのものに対する悔悟の念がその裏にあったとすればどうだろうか。
 以上は、『晩春』に込められた反戦の思いに注目して考えてみた。もちろんこの映画は娘の結婚をめぐる普遍的な父娘の思いを描いた映画である。しかし、それだけだとすると、奇異であったり、唐突であると感じられる部分があると思う。そこには、小津安二郎と、脚本の野田高梧が込めた思いがあるのではないかと想像してみた。
 カメラを睨みつける原節子の顔は、小津安二郎の顔でもあったのではないか。しかし、小津安二郎の世代はこの父娘のちょうど間にいる。だから、その紀子の顔に、小津安二郎は見つめられてもいたはずである。