『パッドマン』と『大人の恋は、まわり道』

 インド映画『パッドマン』と、キアヌ・リーブズ、ウィノナ・ライダーの『大人の恋は、まわり道』のどちらかひとつしか観られないって人に勧めるとしたら、たぶん、実際に観た人の100人中97人くらいは『パッドマン』を勧めると思うし、そもそもこのふたつを並べる意味がわかんないと思うんだけど、個人的には、「疾風怒濤の波をかぶらない恋愛」という点で、このふたつの映画を、仮に、括ってみたい。
 ただ、勧めるとしたら『パッドマン』の方なのは間違いなく、こちらは恋愛映画というだけでなく、奥行きも広がりもスケールが大きい。
 インドの片田舎で、新婚の奥さんがメンスの処理に、雑巾みたいな布を使っているのを知って、安いナプキンを自作しようとする男の奮闘記で、実在の人物がモデルになっているそうだが、インドの性差別や偏見やサクセスストーリーの大略は実話としても、その映画的な脚色の方にむしろ感動した。
 日本に置き換えてみて、本田宗一郎の若い頃を主人公に映画を作るとして、こんなにうまく作れる人がいるかしらと思った。本田宗一郎も、たしか、スーパーカブの元になった原付自転車を、奥さんのために作ったのではなかったかなあ。
 「大愚」って言葉があるけど、主人公ラクシュミの性格はまさにそんな感じ。誠実で明るくバイタリティーに溢れてるけど、どこか抜けてる。町工場で働いているのも本田宗一郎に似てる。アメリカ的なマッチョな価値観の対極にある、こういう主人公が、NYの国連本部で、カタコトの英語で演説する言葉を聞いていると、アメリカの資本主義社会から、さまざまなマイナス面が噴出するのを目にしつつも、アメリカ人がなんとなくそこから離れがたい態度で煮えきれないのは、マッチョな価値観への郷愁といったものがあるからで、それが、トランプ大統領を誕生させもしたのだろうと思えてきた。
 主人公のラクシュミは、苦労して作った機械がコンテストで認められて、特許を取れば大金が手に入るという時に、敢えてそうせずに、安い機械を作り、ナプキンの消費者である女性たち自身を労働力として雇い、そしてまたその利益で、機械をインド全域のみならず、アフリカなど世界各地の貧しい地域に普及させていく道を選ぶ。
 これは、アメリカ型資本主義の真逆の発想だが、重要な点は、それがアメリカ型資本主義に対する批判や反発としてではなく、自然な感情、大金があっても幸せだと感じないだろうという、素朴な実感に素直に従った結果であることだ。
 だから、アメリカ型資本主義が、最新の経済理論でもなんでもない、実は単に、マッチョ神話に基づく虚ろな迷信だと見えてくる。そういう力をラクシュミの言葉と行動が持っている。だから、この映画の恋愛が、どうしてもお姫様抱っこの結末でなければ気が済まないマッチョ神話の幻と違っているのは当然だ。
 パリーというこの映画のヒロインは、アメリカ型資本主義とラクシュミの世界をつなぐ立場にいる。パリーがいなければラクシュミの試みは妄想で終わったかもしれない。ラクシュミに出会わなければ、パリーは退屈な一生を送ったかもしれない。2人の関係は、お互いを補完するという意味で恋愛以上かもしれない。疾風怒濤の悲劇でもなく、ハリウッドのハッピーエンドでもないこの恋愛の顛末は私たちの胸を打たないだろうか。
 この恋愛の顛末が実話かどうかわからないが、なにも、恋愛を、ロミオとジュリエットや若きウェルテルの末裔に独占させなくてもいいだろうと思える。
 その意味で、『大人の恋は、まわり道』も、こじゃれた恋愛映画になっている。舞台はアメリカだし、セリフのある登場人物は、キアヌ・リーブズとウィノナ・ライダーだけという、なんとなく舞台劇の映画化みたいなんだけど、オリジナル脚本みたいです。レビューは散々だけど、個人的にはそんなことはなく、金曜日の夜にカップルで見たりするのにちょうどいいお洒落な映画だと思いますよ。泣いたり喚いたり、キッタリハッタリしなくてもいいだろうよ、という、文字通り「大人の恋」を描いてる。
 この人たちが若きウェルテルの末裔でないかどうか知らないけど、恋愛映画かくあるべきっていう固定観念を斜にみてるのは間違いないと思います。

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パッドマン

青山の児童相談所建設に見る日本のgentrification

 青山で児童相談所の建設に反対する人が多いという話を聞いて、アメリカでようやく問題になり始めているgentrificationが、日本ではとっくに完了して、地域社会を根絶していたんだと気付かされた。
 日本の民主主義が機能しない原因 は、きっと複合的なものに違いないが、そのひとつとして最近考えているのは、地域社会の崩壊だ。
 空き家の増加が報じられるようになって久しいが、これといった解決策が講じられることもなく、一方では、ばかすか新しいマンションが新築されている。はたでみていて空恐ろしい気持ちになる。
 家が地域社会と繋がっていないのだ。
 たとえば、アメリカなら、地域社会に誰かが引っ越してきたとすると、ハウスウォーミングパーティを開いて近所の人たちを家に招く。日本でもついちょっと昔までは「向こう三軒両隣」なんて言葉が生きていた。言うまでもなくすでに死語。むしろ、地域社会と係わり合いを持ちたくないと思う人が多いのではないか。
 それは、逆に言えば、地域社会に依存しなくても生きていけるからだろう。人が帰属している社会が、地域と無関係なんだ。多分それは、急速な高度経済成長のさいに生じた、民族の大移動、知らない町の大学に、偏差値ごとに振り分けられて、知らない町の企業に就職して、その町に住まいするが、それは、その人が企業社会に帰属するためであって、地域社会に帰属するためではない。日本の社会は企業に結びついて、しかもそれが、オリンパス事件などにみられるように、多分にムラ社会的なのは、組合が企業を横断して存在しないために、労働者の社会が、企業に従属しているためだろうと思う。一般社会の正義に反していても、企業社会を守ろうとしてしまう。それこそ、ムラ社会だろう。普遍的なルールに背を向けて、狭い集団の利益を守ろうとしてしまうのは、普遍的なルールがリアルに感じられないからだろう。それもそばのはずなのは、「社会人になる」という言葉が、事実上、「就職する」と同義語で用いられるくらいに、日本人にとっての社会とは企業社会のことだから。
 例えば、待機児童の問題がある。子供を保育所に入れられないために、仕事を諦めなくてはならない女性が多いそうなのだが、これは、行政の問題であるには違いないけれど、そもそも、なぜ子供を保育所に預けなくてはならないかといえば、その家庭が核家族だからだ。「核家族」という言葉も死語なのだろうか。核家族は、夫婦と子供だけの家族のことで、この現象も、高度経済成長とともに生まれた。そもそも核家族は女性が家庭に入ることを前提にしている。でなければ誰が子供を育てるのか?。高度経済成長以前は、そうではなかった。
 桃太郎の童話を思い出してもよい。桃太郎が生まれたとき、家にはおじいさんとおばあさんしかいなかった。父母はどこにいたのか?。言うまでもなく、働いているのだ。おじいさんは山に柴刈りに、おばあさんは川に洗濯に行っていた。洗濯も柴刈りも「生業」 ではなく「家事」である。父母はおそらく田畑で働いていたはずだ。そうでなければ生活がたちゆかない。
 父母が働いているあいだ、祖父母が子供の世話をする。それが、核家族以前の家族では当たり前だった。だから童話に出てくるのは、おじいさんとおばあさんなのである。保育所なんて存在しないし、存在する意味もない。なんなら、幼稚園も学校もいらない。
 そう言う農耕社会を捨てて、企業社会に移行する、その際、女性が家事と育児を担当することになった。それは、高度経済成長の暗黙のルールだった。それは、近代工業化が始まった明治以来徐々に浸透してきて、高度経済成長では一般化したルールだった。母性本能なんてのも、明治以降にでっち上げられたウソの一例なのがわかる。

 これは、渡辺幽香の《幼児図》(ここからお借りした)。渡辺幽香は、五姓田義松の妹である。別に幼児虐待の図ではない。農家では、両親が野良に出ている間、子供を臼に括り付けておくなんてことは普通だったろうと思う。
 高度経済成長の時代には、企業社会が地域社会の代わりをした。終身雇用で、年金も手当も手厚かった。高度経済成長下では、組合活動も必要なかった。ほっといても給料は上がった。企業のムラ社会に隷属する、いわゆる「社畜」である方が、ムラ社会意識から脱しきれていない日本人にとって楽でもあった。
 しかし、バブルが崩壊した後、企業は地域社会の代行を辞め、その後、何度か景気回復した後も、そこに復帰しようとしなかった。結果として、日本人は帰属する社会のすべてを失った。地域社会もない。労働者の連帯もない。ここから民主主義が生まれうるか?。すくなくとも、地域社会が存在しないのに、選挙区の区割りに意味があるか?。意味のない区割りから「八紘一宇」なんて妄言を吐く三原じゅん子なんかが当選したりする。悪夢である。
 二大政党制が実現していれば、地域社会が破綻していても、個人の政治意識を選挙に反映できたかもしれない。ただし、それは、政党が選挙公約を守ることが絶対条件である。地域社会が存在しない以上、政党と個人を結ぶのは公約以外にない。
 ところが、小沢一郎が、選挙に勝った一週間後に公約を破棄するし、マスコミは「マニフエストにこだわることはない」などと平気で公言するし、先日書いた通り、鳩山由紀夫は、とっとと逃げた。あの時点で、民主主義の可能性はなくなった。マニフエスト選挙で勝ったからには、是が非でも公約に拘らなければならないはずだった。田原総一郎が「政策に興味がない」と評した小沢一郎の小賢しさが、結局日本の民主主義を殺した。危機に際して、あのような愚物しか擁することができなかったことが、日本社会の衰退を示しているだろうと思う。
 「日本 家の列島」という展覧会があった。日本の奇抜な住宅を紹介して欧州を巡回した展覧会で好評を博したらしい。たぶん、企画した人に悪意はなかっただろう。日本の街を歩いて、ユニークな建築の家が多いことに気づいた写真家が、そんな家をコレクションしていったということだろう。しかし、当の日本人としてこの展覧会を見ると、日本の地域社会が破壊され尽くしている証拠にしか見えなった。一番ひどかったのは、もしかしたら、ポスターに使われていたかもしれない家で、四方を高い塀で完全に遮断した上で、その一角だけ、ちょうど豆腐の角をスプーンですくったみたいに塀を切っていた。そこから、小さな祠の脇に生えた桜が見えるからだそうだ。当時は書かなかったが、端っこのブログだから、正直に言わせてもらうと、これを建てた人の人格を疑った。
 今、青山に児童相談所を建てるのに反対運動が起こっているそうだが、日本の小さな成功者たちの意識はたぶんそんなものだろうと思う。そこに家はある。地域社会は存在しない。そのことに誰も危機を感じていない。そんな国になってしまっている。「日本、家の列島」って、そう考えるといみじくもよくできたタイトルだった。

断章ふたつ

 
 加藤典洋の『アメリカの影』を読んでたら、こんな言説にぶつかりました。
 「一二世紀において 、パックスとは 、領主間で戦争が行われていないということを意味するものではなかった 。 ( … … )平和とは 、戦争がないことではなく 、戦争のもたらす暴力から貧しい者および弱い者がサブシステンス (民衆が自分たちに特有の文化を維持していくのに必要な最低限の物質的 ・精神的基盤 )を得るための手段を保護することであった 。平和とは 、農民や修道士を守ることであった 。平和とは 、領主間でいかに血なまぐさい戦争が行われている最中であっても 、牛や栽培中の穀物は保護されているということであった 。また平和とは 、非常用の穀物倉庫や収穫の時期が保護されているということであった 。 ( … … )したがって 、対立関係にある騎士同士が戦争をしていようといまいと 、その土地が平和であるということとは無縁のことであった 。このサブシステンスの保護を第一目的とする平和は 、ルネサンスとともに失われてしまった 。」
と、イバン・イリッチが書いているそうです。
(「暴力としての開発」大西順 訳)

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

アメリカの影 (講談社文芸文庫)

 それから、江藤淳の「荷風散策 紅茶のあとさき」を読んでいたら、断腸亭日乗昭和17年三月十九日の記事にこんなのがあるそうです。
「 噂のききがき
上野東照宮五重塔のほとりの休茶屋にては近年茶汲の女に花見の時節赤襷赤前垂をしめさせゐたり。然るにこの程警察署にて右赤前垂は目立つ故緑また桃色にすべき由申渡せしに茶屋のかみさん承知せず、警察署に至り何故赤き色御禁止になりしや。日の丸の旗も赤いでは御在ませんか。赤前垂は派手なれば桜時にはふさはしきものなり。若しはでなものがいけないと云はるるはればお上の御威光にて春も来ず、花も咲かせぬやうになさいませとしやべり立てられ、役人も返す言葉なく遂に例年通赤前垂を許すことになりしと云」

『アリー/スター誕生』4度目のリメイクの意味

 『スター誕生』のオリジナルが公開されたのは1937年、まだ第二次世界大戦も始まってない。ジュディ・ガーランド版、バーブラ・ストライサンド版に続き、今度のレディー・ガガ版は、4度目のリメイク。
 ストーリーの骨格はすごくシンプル。大スターが無名の新人を見出し、新人は大ブレイクするが、対照的に彼女を見出したスターの方は落ちぶれていくという話。
 なので、アレンジしやすいとも言える。フランス映画として初めて米アカデミー作品賞を受賞した『アーティスト』とか、今年公開された三木聡監督、吉岡里帆阿部サダヲ主演の『音量を上げろタコ!なに歌ってんだか全然わかんねぇんだよ!!』も、その変奏と言えないことはない。
 しかし、前回のバーブラ・ストライサンド版からすでに40年以上も経って、タイトルもそのまま、堂々とリメイクするモチベーションは何なんだろうと訝っていたが、どうやら監督も兼ねているブラッドリー・クーパーにこの作品が降りてきた気配があった。
 レディー・ガガが今さら女優に色気を出すはずもなく、ドラマの比重は、ブラッドリー・クーパーの演じるロックスターのジャックの方にずっと重い。
 1937年のオリジナルはもちろん、ジュディー・ガーランド版も、バーブラ・ストライサンド版も知らないので比較できないが、少なくとも、このレディー・ガガ版は、だんだん落ちぶれていく男の嫉妬や焦燥ではなく、自分が見出した才能が、商業主義に呑み込まれていく虚しさや孤独感がむしろ丹念に描かれている。
 映画の冒頭から、ジャックはロックスターの暮らしに飽き飽きしている。その虚栄のむなしさが骨身にしみている。だからこそ、アリーの歌に癒されたはずだったのに、その彼女が、手も無くその虚栄に嬉々として興じているのは、彼にとって悪夢でしかない。
 今まさに上昇気流に乗っているアリーにはジャックのその孤独が伝わらない。その伝わらなさが、レディー・ガガが何度も歌う劇中歌“shallow”のアレンジの違いですごく説得力のある表現になっていて、やっばりレディー・ガガってすごいんだなと思った。こういう風に歌っちゃダメなんですって歌い方もちゃんとできる。
 バーブラ・ストライサンドが歌った『スター誕生』の主題歌“evergreen”もプラチナ・シングルになったが、『アリー/スター誕生』のサウンドトラックも、ビルボード初登場1位から3週連続首位だったそうだ。
 ジャックを苦しめているもうひとつのことは、故郷の喪失感。ロックスターは虚像でも、音楽は彼のルーツであり続けている。そういう部分にフォーカスした解釈が、今回のリメイクの意義である気がする。ジャックはアリーにルーツを見た。だからこそ、アイドル的な売れ方をしていくアリーに対して「自分が君を堕落させた」と告白する。
 だが、それが若いアリーには伝わらない。その辺のことを視覚化しているのは、アリーの髪の色の変化なのはいうまでもない。
 『スター誕生』ってタイトルの意味は、これは、オリジナル版の頃から変わらないコンセプトなのかもしれないが、スターと言われる存在には、ただ売れているとか、人気があるとか以上の何かが必要に違いなく、アリーの最後の歌唱シーンには、彼女がたしかにそれを手に入れた風格と、そして、孤独がにじむ。
 ジャックにとってもそうであったように、歌に乗せて聴衆に届けているものについて、聴衆自身が無自覚なのである。アリーはほとんどただひとりの聴衆を失った、その怖ろしく長い空白に、アリーはこれから耐え続けなければならない。聴衆の誰にも伝わらない、というより、伝わらないと彼女自身が思い続けるだろうその孤独を、彼女の歌は、宿命づけられてしまった。
 「我かつて罪なくて生きたりしが、掟来たりし時に我は死に、罪は生きたり」ってことですかね。
 ところで、蛇足ながら、もう一度念を押しておくけど、『音量を上げろタコ!なに歌ってんだか全然わかんねぇんだよ!!』は、今をときめく錚々たるミュージシャンが楽曲を提供した、日本版『スター誕生』だから、この『アリー/スター誕生』が気に入った方はぜひ観てくださいね。
 
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『鈴木家の嘘』

 アミュー厚木の映画.comシネマが閉館したことは、つい先日書いたが、Movie Walkerで映画を探していたら、また、厚木に映画館がオープンしていた。kikiという。調べてみるまでもなく、アミュー厚木のあの施設をそのまま使っているに決まってる。いい映画館になってほしいとは思う。
 それでさっそく『鈴木家の嘘』を観に行った。この映画は観たいと思ってたのだけれど、上映館が少なくて、また見逃しそうだったところ。
 野尻克己という人の初監督作品で脚本もこの人の書き下ろし。脚本は、実体験を元にしているためか、とてもリアルなところと、生煮えなところがモザイクになっている。
 いちばんリアルに感ぜられたのは、男女の性差こそあれ、この監督自身の家族の中での同じ位置を占めている木竜麻生のパートだった。ちなみに木竜麻生は『菊とギロチン』の木竜麻生で、今回もなかなかよかった。
 一方、いちばんリアルティーがないと感じたのは、ソープランドをめぐるエピソードで、ごっそりない方がむしろよいと思ったほどだった。
 脚本が下敷きにしている実体験がどれであるのかは分からないし、それを探り当てようという下世話な興味は持たないが、あのソープランドのエピソードが実話か否かはともかく、あのエピソードは、引きこもりの末自殺した兄(加瀬亮)についての情報を補完する働きをする。書き手の意図がどうあれ、そう働く。その結果として、この兄の「不在さ」が曖昧になる。兄の性格について焦点がぼやける。
 逆に、コウモリのエピソードは象徴として働く。なので、コウモリのエピソードがあれば、ソープランドのエピソードはまるまる余計だと言える。コウモリのエピソードは、ソープランドのエピソードと逆に、兄の「不在さ」を昇華させ鮮明にする。
 また、ソープランドのエピソードは、兄だけでなく、父親(岸部一徳)の在り処も曖昧にしている。この父親は、ずっとソープランドのエピソードに拘っている。しかし、答えはそこにはないはずだった。端的に言えば、この父親はそこに逃げ込めてしまっている。試しに、その逃げ道がなければどうだったかを考えてみると、その方がずっと、この父親の父性の問題を浮かび上がらせたはずだった。
 というより、あの父親自身も内心では、そこに答えがないと知っている小さなエピソードにしがみつこうとしている。その弱さが描けていないと思った。この監督自身が父の問題を避けているのかもしれない。
 父と子、母と子の問題、言い方を変えて父性と母性の問題については、妹(木竜麻生)と兄との関係ほどは、踏み込みきれてはいないとおもった。しかし、そこまで描き切れたら小津安二郎クラスの名作ということになるだろう。なかなかそうはいかない。
 それと、個人的なタイミングとして、江藤淳の『成熟と喪失』を読み終えたばかりなので、それと比べてしまうってことはあるだろう。genderという言葉は、もちろん性別をさすわけだから、男性、女性の役割、裏から言えばその疎外についての言葉だろうが、父と母についても同じようにgenderという言葉を使いたくなる。そして、子についても、子という役割を割り振られ、子であることで自らを疎外してしまうという意味で、子というgenderという、たぶん英語としては、何も通じないだろう言葉が頭に浮かんでしまった。
 父、母、子という役割を割り振られてしまって、その関係から抜け出せない。つまり、何者でもない他者になれない。ために成長できない。それを父性の不在と言ってもいいが、しかし、それよりももっと正しいのは、他者の遇し方を理解できない社会性の未熟さが問題の本質ではないのかと、そう思った。あ、これは、『成熟と喪失』を読んで。
 「いい大人」が、さっき言った「子というgender」しか生きられないとしたら、それは、引きこもるしかない。父と母も、父と母というgenderしか生きられないとしたら、その子は、子であり続けるしかない。
 ひどい言い方だが、この映画で、兄が自殺しなければ、この家族はどうなっていたのか?。誰かが抜けるしかないのに、誰も抜けようとしないチキンレースに、この兄は終止符を打ってくれたと言えるだろう。フランツ・カフカの『変身』も、この映画と同じ家族構成だが、主人公のグレゴール・ザムザが死んだ後、家族は自分たちが少し豊かになっていることに気づく。
 親子というかりそめの関係を、神聖化してしまったのは、実は近代だった。それ以前、仏教は早くから親子の縁を断つことを教えていたが、そうした仏教を廃し、天皇に中央集権化する架空の親子関係を作ったこと(「天皇の赤子」などという気持ちの悪い言葉もあった)が、日本の人間関係をゆがめたと言えるかもしれない。
 実を言えば、私自身も3年ほど(時間の記憶が曖昧)引きこもりを経験している。あのとき、私が死ななかったのはなぜか?。今でも不思議に思うことがある。ただ、今でもそこから這い上がったとは思っていないし、這い上がったところに何かがあるとは、さらに信じていない。

日本人がホワイトハウスに陳情嘆願

Stop the landfill of Henoko / Oura Bay until a referendum can be held in Okinawa
 はてなブックマークで知ったけれど、辺野古の埋め立てを中止してくれって言う署名嘆願が、ホワイトハウスの嘆願サイトで始められている。もうすぐ10万人を超えるのではないかと思うが、恥ずかしくてしょうがない。
 私たちはアメリカ人じゃないわけである。私たちは日本の主権者で、私たちの代表は、ワシントンDCではなく、東京にいて政務全般を執り行っているはずなのである。
 何が悲しくて、日本人がホワイトハウスに陳情嘆願しなきゃならないのか?。私たちはボートピープルなのか?。
 辺野古の埋め立てに関しては、私たちはとっくに民意を示した。2009年の、政権交代選挙の時に、鳩山由紀夫は「最低でも県外」と明言していたのであって、その選挙で308議席を獲得するという地すべり的大勝利を収めたのだから、あとは、基地移転、あるいは、廃止に向けて、オバマと膝を交えてトップ会談をすれば良いだけだった。
 と言うよりも、選挙公約に責任を持っている政治家ならば、そうしなければならなかったはずだし、あの圧倒的な民意の後押しがある状況ならば、それができたはずだった。
 ところが、実際に鳩山由紀夫がやったことをひとことで言えば「ビビって逃げた」のである。
 選挙という民主主義の根幹に関わる行動で、主権者が民意を示しているのに、肝心の政治家がビビって逃げてて、民主主義が成立するか?。
 鳩山由紀夫民主党があのとき民主主義を殺したのである。あのとき、民主党の政治家だった人間が、この問題について何か発言する神経が理解できない。
 じゃあ、かりに今、立憲民主党が政権をとったとして、沖縄の基地をどうするのか?。また「最低でも県外」か?。もちろん、もう誰も日本の政治を信じていない。その証拠が、この、ホワイトハウスの署名嘆願なんだろう。
 それにしても、安倍政権のバカバカしさは、沖縄の米軍基地を恒久化することにしかならない、このような施策を選択しておいて、片方で強引に改憲しようとしているのだが、その改憲は、何のためにしようとしているのか?。米軍基地が沖縄にあるままで、自主憲法とか、何言ってんのかさっぱりわからない。

今年のM-1について和牛が言ってた

 モノマネ芸人の人たちに言いたいけど、スーパーマラドーナ武智のモノマネは、ウケるか凍りつくか、危険すぎると思う。絶対に誰もやらないでね。
 和牛がラジオで言っていたところによると、今年のM-1は、「会場対芸人」みたいな雰囲気になったそうで、それは、今年からM-1の放送時間が延びたために、一組が終わるたびに、審査員の講評を差し込んだので、その度ごとに、折角温まった会場がまた冷えちゃうのだ。
 審査員の存在は、観客には感じさせないように、観客は、純粋に演芸を楽しめる雰囲気にしておくべきだったのに、審査員の講評を挟みすぎたために、観客も、審査員目線になってしまったということが、今年のM-1の本当の問題点だったのだろうと思う。
 だから、というわけでもないが、今回のスーパーマラドーナ武智の暴言事件について、真っ先に、上沼恵美子に謝罪しなければならないのは、M-1の主催者だったはず。もちろん、表に出ないだけで、謝罪しているはずだとは思うが、一番の責任者が逃げおおせるみたいな社会になってる気がして気持ちが悪い。