『鈴木家の嘘』

 アミュー厚木の映画.comシネマが閉館したことは、つい先日書いたが、Movie Walkerで映画を探していたら、また、厚木に映画館がオープンしていた。kikiという。調べてみるまでもなく、アミュー厚木のあの施設をそのまま使っているに決まってる。いい映画館になってほしいとは思う。
 それでさっそく『鈴木家の嘘』を観に行った。この映画は観たいと思ってたのだけれど、上映館が少なくて、また見逃しそうだったところ。
 野尻克己という人の初監督作品で脚本もこの人の書き下ろし。脚本は、実体験を元にしているためか、とてもリアルなところと、生煮えなところがモザイクになっている。
 いちばんリアルに感ぜられたのは、男女の性差こそあれ、この監督自身の家族の中での同じ位置を占めている木竜麻生のパートだった。ちなみに木竜麻生は『菊とギロチン』の木竜麻生で、今回もなかなかよかった。
 一方、いちばんリアルティーがないと感じたのは、ソープランドをめぐるエピソードで、ごっそりない方がむしろよいと思ったほどだった。
 脚本が下敷きにしている実体験がどれであるのかは分からないし、それを探り当てようという下世話な興味は持たないが、あのソープランドのエピソードが実話か否かはともかく、あのエピソードは、引きこもりの末自殺した兄(加瀬亮)についての情報を補完する働きをする。書き手の意図がどうあれ、そう働く。その結果として、この兄の「不在さ」が曖昧になる。兄の性格について焦点がぼやける。
 逆に、コウモリのエピソードは象徴として働く。なので、コウモリのエピソードがあれば、ソープランドのエピソードはまるまる余計だと言える。コウモリのエピソードは、ソープランドのエピソードと逆に、兄の「不在さ」を昇華させ鮮明にする。
 また、ソープランドのエピソードは、兄だけでなく、父親(岸部一徳)の在り処も曖昧にしている。この父親は、ずっとソープランドのエピソードに拘っている。しかし、答えはそこにはないはずだった。端的に言えば、この父親はそこに逃げ込めてしまっている。試しに、その逃げ道がなければどうだったかを考えてみると、その方がずっと、この父親の父性の問題を浮かび上がらせたはずだった。
 というより、あの父親自身も内心では、そこに答えがないと知っている小さなエピソードにしがみつこうとしている。その弱さが描けていないと思った。この監督自身が父の問題を避けているのかもしれない。
 父と子、母と子の問題、言い方を変えて父性と母性の問題については、妹(木竜麻生)と兄との関係ほどは、踏み込みきれてはいないとおもった。しかし、そこまで描き切れたら小津安二郎クラスの名作ということになるだろう。なかなかそうはいかない。
 それと、個人的なタイミングとして、江藤淳の『成熟と喪失』を読み終えたばかりなので、それと比べてしまうってことはあるだろう。genderという言葉は、もちろん性別をさすわけだから、男性、女性の役割、裏から言えばその疎外についての言葉だろうが、父と母についても同じようにgenderという言葉を使いたくなる。そして、子についても、子という役割を割り振られ、子であることで自らを疎外してしまうという意味で、子というgenderという、たぶん英語としては、何も通じないだろう言葉が頭に浮かんでしまった。
 父、母、子という役割を割り振られてしまって、その関係から抜け出せない。つまり、何者でもない他者になれない。ために成長できない。それを父性の不在と言ってもいいが、しかし、それよりももっと正しいのは、他者の遇し方を理解できない社会性の未熟さが問題の本質ではないのかと、そう思った。あ、これは、『成熟と喪失』を読んで。
 「いい大人」が、さっき言った「子というgender」しか生きられないとしたら、それは、引きこもるしかない。父と母も、父と母というgenderしか生きられないとしたら、その子は、子であり続けるしかない。
 ひどい言い方だが、この映画で、兄が自殺しなければ、この家族はどうなっていたのか?。誰かが抜けるしかないのに、誰も抜けようとしないチキンレースに、この兄は終止符を打ってくれたと言えるだろう。フランツ・カフカの『変身』も、この映画と同じ家族構成だが、主人公のグレゴール・ザムザが死んだ後、家族は自分たちが少し豊かになっていることに気づく。
 親子というかりそめの関係を、神聖化してしまったのは、実は近代だった。それ以前、仏教は早くから親子の縁を断つことを教えていたが、そうした仏教を廃し、天皇に中央集権化する架空の親子関係を作ったこと(「天皇の赤子」などという気持ちの悪い言葉もあった)が、日本の人間関係をゆがめたと言えるかもしれない。
 実を言えば、私自身も3年ほど(時間の記憶が曖昧)引きこもりを経験している。あのとき、私が死ななかったのはなぜか?。今でも不思議に思うことがある。ただ、今でもそこから這い上がったとは思っていないし、這い上がったところに何かがあるとは、さらに信じていない。