「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」

knockeye2017-02-19

 ジャン=マルク・ヴァレって監督は「ダラス・バイヤーズ・クラブ」、「わたしに会うまでの1600キロ」、そして今回のこの作品。何か共通点があるだろうか。大概の監督は、たとえて言えば、コード進行が似ていたりするのだけれど、そういう手癖みたいのが見えない。ちょっと不思議な監督かも。
 「わたしに会うまでの1600キロ」と今回の映画の共通点をあえて言えば、喪失感だろうか。
 喪失と死の違いは、死が決定的に極私的であるのに対して、喪失はそれがどんなものであろうとも、関係に生ずるものである。あたりまえのことをややこしく言ってみました。言い換えれば、死ぬときはだれでも一人だし、人は自分の死以外に死を経験しないし、知ることもない。残されたものが経験するのは死でなく喪失なのだ。
 自分とかかわりのある誰かが死ねば、その関係には喪失が生ずる。関係が喪失するのではなく、関係に喪失が加わるだけ。どんなに最愛の人であっても、死は絶対に極私的なので、かけらほども理解できるはずはないのだが、人は喪失ではなく、死を知りたいと望んで、死について考え、多くの場合、自分の喪失には気が付かない。この映画の主人公は、突然の妻の死でそうした喪失を経験する。
 泣こうとするけれど泣けない。人間って誰も、死も喪失も想像すらしないで生きている。明日も昨日と変わりないだろうと思って生きている。だって冬になれば、夏の暑さを思い出すことすらできないんだからね。たった半年前なんだけど。そんな人間が別れを覚悟して生きているなんて絶対うそなのである。
 主人公の周りの人は、最愛の人を亡くしたのだから、打ちひしがれているだろうと考えて先回りして泣いたりしているが、喪失はそんなふうに訪れないみたい。
 西川美和監督の「永い言い訳」と比較されたりしているようだが、この映画の秀逸なところは、奥さんが亡くなった病院の自販機で、買おうとしたm&mが出てこない、その苦情の手紙に主人公の喪失感を書かせるところ。そのファンタジーがこの映画を動かしていく。
 西川美和監督も是枝裕和監督も好きだけれど、ちょっと自然主義的な縮こまり感は感じる時がある。是枝監督は「空気人形」とか、そういう部分は他の原作で補っているみたい。西川美和監督は「ディア・ドクター」も「ゆれる」も、現実にありそうなところから想像を膨らませていくように思う。
 ジャン=マルク・ヴァレ監督の前作ふたつは、たしか、実話だったはずなんだけど、今回の、なさそうだけどあるかもしれない想像の跳躍力はなかなかのものだと思った。
 ちなみに、この映画の原題は「Demolition」、破壊という意味だそうだ。『破戒』なら島崎藤村だけど、たしかにそのままでは日本の客は入らないだろう。邦題はなかなか凝っている。「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」っていう。これは映画の中に出てくる言葉なんだが、ちょっと詩的に訳しすぎて意味が分かりにくくなっている。
 主人公のクルマのサンバイザーの裏に、奥さんが生前隠していたメモの言葉なんだが、字幕ではこの邦題そのままだったのだけれど、意味が分からなかったので後で検索しまくった結果、「If it's rainy, You won't see me, If it's sunny, You'll Think of me.」と書いてあったのだそうだ。
 サンバイザーの裏なので、「雨だったら見ないでしょうけど、晴れたらこれを見つけて思い出してくれるでしょう。」って、仕事にかまけている主人公に、ちょっとした皮肉をこめた奥さんの伝言だったわけだった。たしかに原文も韻を踏んでいるけれど、これをどう字幕にするかは難しかったのは理解できる。
 奥さんの死と主人公の喪失感が、二人の関係性の中に回収されていく重要なポイントだった。
 もうひとつ美しい場面だなと思ったのは、奥さんのお墓の前に立つ主人公に、ある人が歩み寄ってくる。ネタバレというほど大げさではないが、一応隠しておきたいと思う。喪失の物語が輪を閉じる。
 主演のジェイク・ギレンホールは、前の「ナイトクローラー」を観ようか観まいかと迷いつつ観なかったんだけど、今回の方がたぶん好きだったろうと思う。
 ナオミ・ワッツは、思い出してみるとめったにはずさない人ですね。「ヤング・アダルト・ニューヨーク」、「ヴィンセントが教えてくれたこと」、「バードマン」、「恋のロンドン狂騒曲」、「愛する人」、「ザ・リング」、「マルホランド・ドライブ」って、どれも好きです。