薬指の標本

knockeye2005-01-30

タラの芽の天ぷらを買ってきて食べた。本来なら春の便りといいたいところだけれど、予報通り寒波が迫ってきている。ダイハツにおとといの修理代を払いに行くみちみち、視界が白くなり始めて、行き交うクルマは次々ヘッドライトをつけた。勢いをつけてクルマのドアから店のドアへ駆け込んだが、受付デスクに歩く間に頭を振ると、ぱらぱらと発泡スチロールのような丸い雪が落ちた。この雪は積もるだろう。
薬指の標本 (新潮文庫)
パトリシア・コーンウェルの『私刑』が手に入らないので、小川洋子の『薬指の標本』を読んだ。死体安置所から連想したというわけではない。ホントは同じ作者の『まぶた』を読むつもりだったが、これまたない。『薬指の標本』を手に取ると、帯に「フランスで映画化決定!」とある。フランスの映画心をくすぐる短編って、どんなのだろうと思って買ってみた。
精緻なディテールで組み上げられた独立時計師の作品を見るようだ。こういう作品を読むと、ふだん何気なく触れている日常の細々としたモノが、突然質量をもって主張してくる気がする。こちらまで、少し女性の生理に浸食される気がする。
和文タイプが重要な小道具として登場するが、フランスで映画にする時はどうするんだろうとか、どうでもいいことを考えてしまった。併載されている「六角形の小部屋」も気に入った。六角形の小部屋は、私に置き換えるとこのブログということになるだろうか?わたくし、長いことせこせことこれを書いているが、そもそも紙媒体の日記は長続きしたことがなかった。自己分析するに、紙の日記は1頁目から順番にめくっていかなければならない。だんだん重なってくる頁にうんざりしてしまうのだ。たとえば、1月31日のことを書く時でも1月1日からめくっていかなければいけないなんて。しおりでもはさんでおけばいいじゃないかと、いうかも知れないが、それでも、現実にモノとして存在しているそれまでの頁は無視できない。その点、ネットに書く日記は、開いた時に目にはいるのは、その前に書いた一日分だけなのだ。これが、書き続けられる最大の理由だと思っている。
話はそれてしまった。どちらの小説も寓話的に感じられるが、『六角形の小部屋』の方が、滑稽味もあり、また途中で文体が変わるのも面白くて好きかもしれない。ただ、どちらも短編だし、タマネギの皮をどんどんむいていって、ガンガン涙が流れるという類ではない。骨董の懐中時計の蓋をカチリと開けてしばらく眺める。そんな味わいである。
小川洋子は『博士の愛した数式』で、その存在を知り、「読んでみようかなぁ、どうしようかなぁ」と思っていた。才能のある作家で、しかも多作であるようだ。これはけっこう肝心なところだと思う。好きになった作家はたくさん読みたいから。

本ばかり読んでいるのもいかがなものかと、雪が降り始めたことでもあり、スーパー農道を走って眼目山立山寺というところに出かけてみた。昨日訪ねた薬用植物センターの次の角を曲がったところにあり、距離が手頃なのだ。樹齢400年という栂並木の参道があり、もう一ひねりすれば雰囲気がよくなりそうである。何度か訪ねているが、つかみ所がなくて、上手く写真にならない。今回もそういう感じだった。
駐車場の竹藪に雪が降り積もって、竹が重たくしなっている姿を見ると、伊藤若沖を思い出してしまう。雪の湿り気さえ感じられるほどに鮮烈な絵だ。若沖の絵があんなに鮮やかなのは、高い絵の具を使っているからだという説を聞いた。若沖は京都の大店の主だったので、確かに絵の具を惜しむようなことはしなかったろう。他の画家が安い絵の具を使ったとも思えないが、絵の出来は絵描きだけでなく、絵の具や筆や絵絹や紙や墨やを作る職人さんたちの作品でもあるわけだ。そういう意味では、いつまでもコンパクトデジカメを使ってんじゃない、キヤノンかどこかのデジタル一眼レフを買えよ!という意見もごもっともである。
しかし、同じようにコンパクトデジカメにもそれなりの意図があるはずで、その意図に惹かれるという一面もあっていいわけだ。キヤノン銀塩の時からそうだけど、一眼レフはいいけどコンパクトにいいものがなかった。機能を盛り込みすぎる。多分、プロ志向なんだと思う。出来る限りの機能は用意しました、あとはご随意に取捨選択してください、という態度は、プロに対しては文句なしに正しいし、アマチュアに対しても撮る目的がはっきりしている時はありがたい。ところが、散歩のついでに持ち歩くとなると、ちょっと意識がずれてしまう。
たとえば、機関銃も乗りそうな重い三脚に、15mmから1000ミリまでカバーする交換レンズをもって散歩できるだろうか?もしかしたら出来るかも知れないし、現にしている人がいるかも知れない。私の場合、それでホントに撮りたい写真が撮れるんだろうかという疑問がいつもハラの中にあるということなのだ。