『世間とは何か』再考

陽根

阿部謹也の『世間とは何か』は、名著の評判だが、読後感はそんなにしっかりしたものではない。たぶん、構成力がいまいちなのだろう。前にも触れたが、第二作の『教養とは何か』で、『教行信証』を6ページにわたって引用するなんて、構成力がある人がするとは思えない。
むしろ優れているのは発想力で、「日本社会って、実は『世間』じゃないの?」という発見だけで評価されていい。西洋でフォーマットができあがっている学問と違うのだから、いろいろな方向からアプローチするべきなのは理解できる。
しかし、学者ならざる一読者としては、親鸞まではよいとして、兼好法師西鶴島崎藤村金子光晴、と来られては、さすがに印象がとりとめない。というわけで、後になっていろいろと考え込むことになってしまう。ある意味いいことなのか?
個人的に「世間」を考えるとき、自分の対人恐怖めいた気質も併せて考えている。わたくし実のところ、あんまり人に会いたくないのだ。それまで人だと思って接していた相手が、いつの間にか「世間」という得体の知れないもののパーツに化してしまっている。これは想像以上に怖い。
今日、このテーマについて再考しているのは、「集団主義」というキーワードを見つけたからだ。
日本人をざっと乱暴にくくってしまうと、要するに集団主義者ではないのか?平等で安全な社会は、足を引っ張り合う集団主義の結果に過ぎないし、海外の評価を気にするくせに、身内のこととなると著しく無神経なのは、集団の内外で規範が違うせいだし、誰もが集団の中で目立たないように息を潜めて生きている。
金子光晴が、「西洋人であることの退屈さが分かってきた気がする」といったが、日本人であることもやっぱり退屈に違いないようだ。
金子光晴の『どくろ杯』を読み始めている。なんとなくジュンヤさんを思いうかべてしまう。