読書初め

knockeye2008-01-03

西洋中世の男と女―聖性の呪縛の下で (ちくま学芸文庫)

西洋中世の男と女―聖性の呪縛の下で (ちくま学芸文庫)

今年の読書初めはこれ。
「聖性の呪縛の下で」と題された、最終章に取り上げられているアベラールとエロイーズの往復書簡を、私はなぜか20代のあるときに読んだ。なぜ、そんなものを読んでみようと思ったのか。聖性の呪縛は千年のときを経たくらいで消え去りはしないようである。
「私たちが一緒に味わったあの愛の快楽は、私にとってとても甘美でした。私はそれを悔いる気にはなれませんし、また記憶から消し去ることもできないのです。
どちらのほうへ振り向いても、それは常に私の目の前にのしかかり、私を欲望にそそります。眠っているときでも、その幻像は容赦なく私に迫ってまいります。ほかのときより一層純粋にお祈りしなくてはならないミサの際でさえも、その歓楽の豊潤な映像が哀れな私の魂をすっかり取り込んでしまい、私はお祈りに専念するよりは、恥ずべき思い出に耽るのでございます。
犯した罪を嘆かなければならない私ですのに、かえって失われたものへ焦がれてしまうのです。ただ単に私たちがした事柄だけではなく、私たちがそれをした場所が、時刻が、あなたの面影と一緒に私の心に深く刻まれ、私はそのすべてをあなたとともにまた心のなかで繰り返すのでございます。
眠りのなかでも、その幻から解かれることはできません。私の胸に潜む思いは、しばしば私にもあらぬ身体の動作となってあらわれ、またふいにことばになって出てまいります。ああ、私はなんと哀れな女でございましょう。」
このエロイーズの書簡が、阿部謹也にこの本を書かせたのではないかと疑いたくもなる。
阿部謹也という人は、文章に揺り動かされる人だったと思う。なにしろ、親鸞聖人の教行信証の一節を2ページ以上にわたってまるまる引用した人だし。
この本の第一章は、ホーソーンの『緋文字』から説き始められている。それが、最後のアベラールとエロイーズの往復書簡と上手く呼応しあう。しかし、19世紀の『緋文字』のころまで、アベラールとエロイーズから600年を経ても、人は、というか社会が、宗教の呪縛から逃れられなかったのである。
古代から、キリスト教成立を経て中世世界まで、キリスト教がセックスを抑圧していく過程を読みながら、ときどき頭の片隅に中沢新一の「三位一体」の内容がちらちらした。どうして宗教はセックスを穢れとするのだろうか。聖性といっているけれど、それは結局死なのだし、死を越えて増殖し続けるセックスをめぐる行為は、死が聖だと考えれば穢れとなるだろう。
宗教は男が作ったもので、男にとって、ときどき襲ってくる性欲は、それがデーモンの仕業で、ことが終った後の感じが神性に近いと、都合よく思っていることが可能だ。神と悪魔という二元論は、そういう男の生理を反映していると思う。
『緋文字』のころのアメリカが、中世をひきずっているという指摘は面白いと思った。アメリカは絶対君主制のヨーロッパを拒否してきたピューリタンたちの作った国だからだ。
しかし、キリスト教徒でない私たちにさえ、キリスト教が強いたセックスへの抑圧が及んでいる。たとえば、日本人はいつから処女をありがたがるようになったのか。近代という価値自体が、キリスト教的であったと思う。当時の日本人はそれを相対化できるほど、自分達の文化に自覚的ではなかったし、開かれた社会でもなかったのだと思う。
せっかくの長い休みだったが、お正月は帰省。Uターンラッシュのピークにあたって、なかなかえらい目にあった。普段の年は、帰阪した直後に、駅で帰りの指定席券が手に入るのだが、今年はそれが出来なかった。ので、帰りは混むだろうと覚悟はしていた。それで、いつもは新快速で新大阪まで出て、それから新幹線にするのを、今年は姫路から新幹線に乗ることにした。少しでも前から乗っていたほうが、座れる可能性が高いだろうという読み。それがあたって、ありがたいことに姫路からずっと座っていけたのはよかったが、130%とかいいう混雑で、とてつもなく暑かった。それに、まいってしまったのは、通路が人でいっぱいで、トイレに行くのに一苦労だったこと。通路に立っている人には悪いけど、とうとう辛抱たまらず、トイレに行って帰ってきただけで、汗がメガネにたれてしまった。
新幹線は小田原で降りて、そこから小田急にした。ほんとうは新横浜回りで帰ったほうが早いのだけれど、座れないリスクをヘッジしたのである。しかし、あの暑さでは、いずれにせよ、あのまま新横浜まで座っていく気にはなれない。小田原から急行で、本厚木まで各駅停車だけれど、乗り込んだときはほっとした。こちらも問題なく座れたが、小田急って小田原が終点だと思っていたのは勘違いだった。このあたりのことはまだまだ何も知らない。