クラーナハ展

knockeye2016-11-20

 国立西洋美術館クラーナハ展。
 ルーカス・クラーナハは、マルティン・ルターと親交が深く、彼と彼の家族の肖像画を何枚も描いている。
 しかし、それだけなら、500年後の東洋の島国で、展覧会が開かれることはないだろう。画家としてのクラーナハが、今でも私たちに投げかけている謎は、なんといってもエロティシズムなのである。
 それは、今回のポスターにも使われているユディトに典型的に表れている。

 他のユディトの例を見てみると、たとえば、アルテメシア・ジェンティレスキーのユディト。

 レイプされた経験のある、この女流画家が描くユディトは、いかに真に迫っていようとも、ただ、男を殺す女というだけのことである。
 また、カラヴァッジョが描くユディト。

 カラヴァッジョは常にモデルを使って描いた。盾に描いたメドゥーサの首のように、この絵もたしかに人を驚かせるが、ユディトは、まるで初めて魚をさばく女の子のようである。
 クラーナハのユディトは、おそらく伝説の通りか、あるいは、伝説以上に、絶世の美女に描かれている。絶世の美女であることで、人間性を疎外されているといってもいい。人を殺したばかりというのに、一分の隙も無く着飾り、面差しには感情の乱れさえ感じさせない。これに対して、首を切られたホロフェルネスの方は、血の気の失せた顔にまだ射精の恍惚感さえ漂わせているようだ。
 ここにははっきりと死とエロティシズムが描かれている。
 ジョルジュ・バタイユによれば、キリスト教が存在するはるか以前から、死とエロティシズムはともに「悪魔的」である。人間は死を認識することによって動物と区別されるが、死とエロティシズムは、自我という意識にとって、ともに気まずいものだ。
 人は意識を持つことで自我を獲得したが、死とエロティシズムは、ともに自我を破綻させるからだ。死とセックスは、自我という意識が、所詮は仮象にすぎないことをあっさりと証明してしまう。
 すべての宗教が前世と来世を仮定する。もし前世、来世との連続性がなければ、現世の自我は仮象にすぎなくなるはずだからである。厳然たる死という事実を前に、自我という意識の確実さを保証するために宗教は存在する。
 すべての宗教がセックスを忌み嫌う。我々の自我という意識がかりそめにすぎず、我々の生が遺伝子を受け継ぐためだけに存在しているという事実から目を背けるためである。
 にもかかわらず、いうまでもなく、私たちはセックスをする。宗教が死と自我に折り合いをつけるための方便だとしたら、エロティシズムは、セックスと自我の折り合いをつけるための方便なのだろう。
 おそらく、エロティシズムがあるから、私たちはセックスをしつつ自我を保っていられる。私たちがすでに人間である限り、セックスの時にだけ動物に戻ることはできない。だから、動物のセックスはエロくないが、人間のセックスはエロい。
 おそらく、クラーナハの描くこのルクレティアと

沢渡朔の撮った冨手麻妙のこのグラビアは

全く同じ意味しかない。
 しかし、ルーカス・クラーナハだけでなく、アルブレヒト・デューラー、ハンス・バルドゥング、ともに宗教改革派の画家たちが一方でエロティシズムの画家たちであったことは興味深い。
 もう一つ考えられることは、本の誕生だろう。クラーナハはルターのドイツ語訳聖書の出版に協力し、挿絵も描いている。
 宗教改革とは何だったかといえば、キリスト教という信仰を、聖書という一冊の本にしたことだといえる。
 それまでの聖書は、すでに滅びた言語であるラテン語で書かれ、教会の僧侶しか読めなかった。つまり信仰とは教会のことを指していて、聖書は、十字架とか聖像とかと同じように、それに付属するアイテムに過ぎなかった。
 宗教改革はそのシステムを変更した。出版技術がその変更を可能にしたのだが、その出版技術がエロティシズムもまた進化させたのかもしれない。
 逆かもしれない。エロティシズムが出版技術を進化させたのかもしれない。
 ジョルジュ・バタイユは『エロスの涙』に、ラスコーの洞窟絵画について、こう書いている。
「たしかに、人間というものは、本質的に、労働する動物である。けれども、人間はまた労働を遊びに変えることを知っているのだ。私は、そのことを芸術について(芸術の誕生について)強調したい。人間の遊び、真に人間的な遊びは、まず労働であった。つまり、遊びとなった労働だったのである。近づき難い洞窟を乱雑に飾っている見事な絵画の意味は、結局、どのようなものであろうか。
(略)
なによりも、これらの薄暗い洞窟が、深い意味における遊びというもの___労働に対置され、魅惑に服従すること、情熱に応ずることを何よりも先に意味するものである遊び___に捧げられたということは事実なのである。」
 オノ・ヨーコが「アートは生きるのに必要な遊び」と言っていたのを思い出した。