アロイーズ

アール・ブリュットの展覧会を観たとき、一端に触れたアロイーズ・コルバスの展覧会。
行くかどうか迷っていたのは、ワタリウムという美術館が、少し手狭な感じがするのと、青山のキラー通りというのがおしゃれすぎる気もするし、おまけに田中康夫が推薦していたりするものだから、それって場合によっては逆効果だったりしないか。
でも、「クリーン」がちょっとモヤモヤしていたので、その映画館から歩いていけるくらいの距離だし、行ってみる気になったのである、結局一駅地下鉄に乗ったけれど。
行ってみて気がついたのは、躊躇していたのは、上記のような理由よりむしろ、その絵のエロティシズムだったのだろうこと。
画家アロイーズは統合失調症で生涯を精神病院で過ごしたそうだが、日本で言えば明治生まれである女性がこれほど本質的にエロティックな絵を描くためには、狂気をよそおう必要さえあったのではないかとかんぐってしまう。実際、病気はいつかの段階で治っていたのではないかという関係者の証言も紹介されていた。
彼女の絵に特徴的な青い目について、
「彼らはキスをするのに気詰まりに思って、眼鏡をかけていた」
という画家自身の言葉が紹介されていた。
それで、よく見直してみると、エロティックな行為に及んでいない人の目は、同じ青でもちゃんと瞳がわかる。だが、下半身があらわになっていたり、行為に及んでいる男女の目は曖昧な青に塗りつぶされている。あれは眼鏡であるらしい。
あらわな下半身や乳房は肉感的なピンクで描かれているのに、目は眼鏡をかけている。そのことがつまりエロティシズムなのだ。
「もし理性的な生活を続けるなら、あなたは夜の世界で盲目になるだろう」
彼女に言わせると、赤は愛であり王であり女王であり法王でもあるそうだ。つまり、セックスであり、権力であり、権威でもある。
エロティシズムは善と悪の整然とした秩序の世界をそれ以前の混沌に突き戻す。夜の世界へ。
ジョルジュ・バタイユが言葉で解き明かそうとしたことを彼女は絵で表現しようとした。それは、彼女が現に生きている文化や宗教を解体して、心の深いところへ分け入っていく、危険な、しかし魅惑的な作業だったのだろう。
その結果として描かれるイメージの氾濫の前に立つと、こちらもその世界に引きずり込まれそうになる。
狂気を装っているのか。しかし、狂気を装うことと狂気それ自体とどれほど違いがあるのか。狂人を真似るものはまた狂人であるという言葉もある。
この狂気の世界が、彼女の言う私たちの夜の世界に存在していることは疑いない。この動物性が私たちの世界の隠れた大部分なのである。むしろ、私たちが正気を装っているに過ぎないのかも。