長谷川潔、ベッティナ・ランス、小倉遊亀

 震災の影響で中止になってしまった、プーシキン美術館展の‘オルタナティブ’ということなのか、横浜美術館ではいま「長谷川潔展」が開かれている。フランスで廃れていた、マニエール・ノワール(メゾチント)を復活させた、この美しい黒は、今の気持ちに寄り添うように思える。プーシキン美術館展よりもかえって良かったかもしれない。
 長谷川潔は、大正七年にフランスに渡り、その後、1980年に亡くなるまで彼の地を離れなかった。もともと体が弱く、フランスに着いた当初も、旅の疲れでしばらく療養生活をすごしたそうなので、おそらく長旅を避けたのだろうと思う。
 帰国したレオナール・フジタとは、そこで運命が分かれた。とどまった長谷川潔は、敵国人として収容所に収監された。しかし、それが、その後、スタイルを確立するきっかけとなったことは、ニレの樹の逸話を添えて、本人も語っている。 

 東京都写真美術館を訪ねるために渋谷で乗り換えた。大震災以来初めての渋谷だったが、明かりも消えてうすぐらく、汐が退いたあとみたいにうらさみしい。しかも、休日だというのに、何という人の少なさか。着飾った若い子たちがいなくなると、田中小実昌がストリップを見ていたころの‘戦後の薄汚れた街’にもどってしまうようだ。
 恵比寿では、好きだったラヴァンデリというサンドウィッチ屋さんが閉店するそうだ。ガーデンシネマも閉館したし、寂しい夏になりそうだ。
 ベッティナ・ランスの写真展、同時開催されている‘知られざる日本写真開拓史’の、上野彦馬の写真と比べると、おなじポートレートでもあり、まず写真そのものの進化にびっくりする。(ちなみにもう一つ同時開催されていた日本のピクトリアリズム展も見たが、写真が絵のようであろうとした努力には、ほとんど何の意味もないと思う。)
 女性が女性のヌードを撮ることの‘動機の不純さ’については、頭を悩ますものがある。
(たとえば、アール・デコの画家、タマラ・ド・レンピッカが<美しいラファエラ>を描いたときは、
「お嬢さん、すみません、わたくし画家なんですけれど・・・」
と、街で見かけたラファエラに声をかけて、アトリエに連れ込んだあと、・・・みたいなことで、彼女の場合、実際、多くのモデルと愛人関係になっている。
 そして、見る側にとって重要なことは、それが絵に現れていること。かなり露骨に。
 これが、レオノール・フィニになると、この人がレズビアンでないとすると、かえって驚いてしまうような絵なのだけれど、ところが、実際に彼女が同性愛者だったかどうか、わたしにはよくわからない。
 そして、このベッティナ・ランス。なんとなく、時代がくだるごとに、エロティシズムが個人のリアルティーから乖離していく感じがして、それがとても面白い。
 タマラにとっては、絵を描くという表現と、実際の性行為は、ぴったり重なり合っていたのに、レオノール・フィニになると、どちらかというと、表現の方が優先されているかのように見える。
 そして、ベッティナ・ランスになると、カメラマンとモデルの間に、そういう個人的な関係を見出すことは難しい。
 下世話な話だが、作品そのものではなく、彼女たちの欲望のありかに興味を覚えてしまう。
 逆に、古屋誠一のメモワール.のような、強烈に個人的な写真の方に力を感じてしまう。)
 ポルノについて、よくいわれることだが、男性が女性を見て興奮するのは、いったん当たり前のようで、そうでもないのかと思うのは、日本にかぎってかどうかしらないが、女性も女性の姿態に興奮するそうなのだ。
 見る側と見られる側のこの役割分担は、男と女のジェンダーと正確に重なっているのか、微妙にずれてるのか、あるいは、まったく無関係なのかは、わかるようでわかりにくい。じっさい、ポルノグラフィーを見るとき、私たちの心で何が起こっているのか、脳が興奮していることは、下半身が教えてくれるから確かなわけだけれど、何で興奮するのかは、当の本人もわからなかったりする。
 それを今回は大きく引き延ばして、美術館という公共の場で、善男善女に立ち混じって見て回っているわけだから、その状況自体が、そうとうにシュールではある。
 観覧者は女性の方が多かった。これは納得できる気がするのだが、なぜ納得できるのかは考え出すと不思議。私はなんとなく、これからの女性は、見られる側にとどまろうとしないだろうと思っている。今回の展覧会とは直接に関係はないけれど、ネットの普及で、どれくらいの女性がポルノにアクセスしているのか、また、どのような嗜好なのかは、研究してみると面白いと思う。
 恵比寿に来たので、山種美術館で開かれている百花繚乱という花の絵の展覧会。このなかでは、小倉遊亀の<憶惜>が抜群によかった。