「淵に立つ」

knockeye2016-10-27

 「淵に立つ」は、カンヌで受賞したにも関わらず、なんだか上映館が少ないなと思ってたら、イオンシネマがお金を出してるので、イオンシネマ以外では上映しにくい感じなのかな。ともかくも、新百合ヶ丘イオンシネマまでいって観ました。
 海老名のイオンシネマではやってないし。やってても多分行かないかも。ここだけの話、あの映画館、いつ行ってもなんか臭いの。異臭騒ぎ寸前くらい臭い。「ロイヤル・コンセルトヘボウ・・・」のときなんか、ハンカチで鼻を押さえて観てた。
 それはともかく、「淵に立つ」は、やっぱり良かった。「やっぱり」っつうのは、映画の宣伝コピーに「あの男が現れるまで、私たちは家族だった」とか、ありきたりなこと書いてるから、ちょっとためらってたの。
 映画の内容を全然反映してないコピーだと思います。むしろ、逆かもしれないし、古舘寛治のセリフにもそういうセリフがありました。わざと客足にぶらせようと頭しぼってんのかっつうくらい酷いコピーですな。
 ポスターは逆にすごく良い。干してあるシーツの向こうから浅野忠信が顔を半分覗かせています。シーツに、おそらく使われているはずの漂白剤の匂いは、そのままセックスの匂いであるわけですしね。
 女の愛は、全く不可解です。女性が信仰を求めるのは、その禁忌を踏みにじる男の出現を待ちわびるためだと思うことがあります。
 ジョルジュ・バタイユが、そうした「侵犯」について、書いていた記憶があるが、出典を引用できるほど確かではない。しかし、そうした性に関する禁忌は、そもそもの初めから、破られることが前提だったという説には説得力がある。そもそも種の存続のための儀式のような、そうした禁忌が、自我と神が信仰で結びつくようになって、混乱し始め、しまいには処女が懐胎する羽目になる。
 したがって、そういう性の禁忌に頑なになればなるほど、その破壊者の存在に惹かれ続けることになります。そういったことを、バタイユがエロティシズムとして詳説していたと思いますけど、それをここで手短に書くような筆力は持ち合わせません。
 それでも、こんな風に観念的に書いていることを、役者の肉体をもって演じるのは、並大抵のことではない。この映画がカンヌで高い評価を得たのは当然だと思います。
 特に、筒井真理子のエロティシズムなんだと思う。とにかく、平和な家庭が、頭のおかしい奴に滅茶苦茶にされました、みたいな、退屈な映画じゃないから、安心して観にいってください。