『どくろ杯』

やんやさんがご結婚なさっ「てた」のである。現在完了形なのには驚いてしまった。私は他の人たちと違って独り者なので、ふとモト君のことが頭に浮かんだ。それからそれへと色々なことが思い浮かぶ。大半は個人的なことだ。否応なく人生が動いていくのはいいことだと思う。バシシさんからも社会復帰のお知らせが届いた。ブログで知っているのだけれど、区切りをつけるために各方面にメールしたそうだ。
今日は昨日に輪をかけて暑かった。関東大震災の10月もひどく暑かったそうだが、このところ自然災害がありすぎて、何になぞらえていいか分からない。いずれにせよ、暑さのおかげで出かける気が失せてしまい、いろんな予定が後回しになった。見たい美術展のうち、プラート美術の至宝展、これが新宿。佐伯祐三展が練馬区立美術館、このふたつの会期が残り二週間である。ICONのMOTORHEADブーツの実物も検討したい。風魔プラスワンの世田谷店までR246を30km足らず。単純に考えると30分そこらのはずだが、首都の混雑には怖じ気づいてしまう。この暑さとなればなおさら。おまけに昨日の暑気にあたってか、ひどい頭痛がでた。私の身体は悪魔の借り物であるらしく、ときどき家主が取り立てに来る。痛さよりもそのしつこさにいらいらする。
どくろ杯 (中公文庫)
金子光晴の『どくろ杯』を読み終わった。想像していたよりはるかに面白い。もし本屋で見かけたら立ち読みしてほしい。同好の士であれば、最初の一頁で一気に引き込まれるはずである。大正時代が背景であることをうっかり忘れて、ときどき出てくる古い漢字を読み間違えてしまう。
大正時代は日本に自由が煌めいた一瞬だったのだろう。それが一瞬で終わったのは、自由という新しいモラルの地盤が、古い因習のモラルに説得力を持つほど力強くなかったためだろう。しかし、この書は自由の空気を呼吸したものも少なくはなかったという証言でもある。
『どくろ杯』は『ねむれ巴里』『西ひがし』と続く三部作の端緒。まだ巴里にもたどり着かない。しかし、当時の上海の頽廃ぶりは見事に描かれている。日本国内にしたって、光晴が夜逃げの相談に行った実兄がコカインを吸いながらでてきたりする。
(ちょっとスジがそれるけれど、『猫町』を読んで、萩原朔太郎の詩は今でいうドラッグカルチャーであることに今更ながら気が付いた。白秋の詩だって麻薬についての言及があるのに、お坊ちゃんである私はホントにやっているとはハナから思っていなかった。)
『どくろ杯』にもどると、私の読書歴から似ているものを上げると、まるでヘンリー・ミラーの『北回帰線』だ。しかも、こちらは旅の途上であり、紀行文であるのも面白い。続編を読むのが楽しみだ。登場人物も綺羅星のごとしで、孫文谷崎潤一郎の横顔が見られるのも興味深いし、米朝師匠の本にも出てくる正岡容なんて人が活躍したりする。
悪い癖だけど、例によってちょっとだけ引用しておこうかな。

パリにせよ、ロンドンにせよ、更に遠いリスボンにせよ、ミラノにせよ。求めてゆきついた先には、人々が求めたものとは、まったく別のものしかないが人はそれによって失意を抱くよりも、おのが拙い夢の方を修正することで終る。人の夢のはかなさ、弱さは、それが習性のように変わらないが、それこそが、人の心の無限を約束する鍵のありどころを探す非在の矢印なのではないか。マドリッドへ、喜見城へ、夢で誓いを立て、現実にあざむかれて、主よ、教えてくれ。われらはどこへゆくのか。

キリスト教徒でもないのに「主よ」なんてね。このあたりはいよいよ上海を後にするところで、気分が高揚しているのだろう。しかし、この本が40年後に書かれた回想であることを思うと、確かに作者は自分の人生をもう一度生き直しているようだ。