機械な話

機械のように生きたいと常々思ってきた。人間を否定しているわけではない。機械であることは、けっこう人間的なことだ。そもそもこの「人間的」という言葉にしても、疑いようもなく人間であるものを、あえて「人間的」と評することが、すでに人間を逸脱していると気がつくべきだ。
完全な機械というものがもしあるとして、それを頂点に形而上の存在もふくめてヒエラルキーを仮定したとき、人間はなかなか上位の機械だと思う。脳が走らせている心というプログラムはかなり複雑である。
「誰かを超人的だ」と評するとき、人は「誰かのハードが優秀だ」と言っているのだ。同様に、「誰かが人間的だ」という言葉は、「誰かのソフトが優秀だ」と言い換えることができる。このことは逆に「非人間的だ」というときのことを考えればわかる。非人間的な脳のソフトは劣悪なのである。あるいは、すくなくとも非人間的という批判の意味することはそういうことではないか。
つまり、人間主義の極地は機械なのである。誰もが機械ほど人間的ではない。人間が作り出した機械が人間の脳の中身であるのは当然のことだ。一時期、「日本人は機械のようだ」と言われたことがあったけれど、あれは、日本人ほど人間的な国民はいないという意味だった。われわれは近代化の過程ですくなくとも二回は固有の文化を失った、か、あるいは捨てた。そのためわれわれは日本的ではなく人間的にならざるを得なかった。
オタク文化の源流が大阪万博にあるという説には以前ふれたが、「人類の進歩と調和」というあの万博のテーマは、機械と人間の明るい未来を示唆していた。その末裔が世界に発信している文化の主流がアニメーションであることは、あまりにも当然の帰結である。アニメーションは、人間の脳が作り出した人間だからだ。キリスト教徒は、人間は神の似姿だと捉えてきた。だから人間をデフォルメできない。ハリウッドがアニメーションを作ると、どんどん実写版に近づいてしまう。ヒットするアニメは動物が主人公である。これに対してわれわれ人間主義者は(?)人間は人間的であるべきだと考えている。したがって、巨乳の美少女戦士が、華麗なキックを決めたりするのである。