ロンドンで本を読む

ロンドンで本を読む

ロンドンで本を読む

丸谷才一がイギリスの新聞雑誌で紹介された書評を集めた珍しい本。暇なときにちょくちょく読んでやっと読み終えた。残念ながら知っている本は、二冊しかない。北杜夫の『楡家の人々』と、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。
読んだかもしれないのは、アニータ・ブルックナーの『異国の秋』。彼女には、一時期、はまっていた。曖昧な事しか言えないのは、いい加減な読み方に加えて、アニータ・ブルックナーは図書館で借りることが多かったからだ。何しろ、家のすぐ裏が魚津市立図書館なのだし。『英国の友人』、『秋のホテル』、『結婚式の写真』は読んだ記憶がある。なかでも『英国の友人』はおすすめしたい。ああいうのが好みです。
面白いのは、サイデンステッカー訳の『源氏物語』の書評。別々の書評が二編、収録されている。これを読むと『源氏物語』を読みたくなってしまう。長い人生、何度かこれを読もうとしたことがあるが、(もちろん谷崎訳とかの翻訳で)そのたびに挫折している。なのに、英語圏の人々にどうしてこう受けているのだろうか?

アーサー・ウェイリー訳の『源氏物語』が、二〇年代末から三〇年代初めにかけて、巻を追って世に出たとき、この峻厳な中国学者=詩人は、「紫式部の作品を凌ぐ長編小説は世界に存在しない」と言った。「『ドン・キホーテ』はどうだろう?『戦争と平和』は?」と呟いたとしても、やはりわれわれは、この十世紀から十一世紀にかけて書かれた平安朝日本の古典に魅了されたし、この作品が持つ「近代の声」について語り合ったのだ。

一九二〇年代の終わりに近いころ、私の知っている文学好きの若い人はたいてい『源氏物語』に魅惑されていた。アーサー・ウェイリー訳の六巻本がきちんきちんと刊行中だったのだ。その六冊を読むことは、いつもは洗練されない趣味の人々にとってさえ、強烈な美的体験となった。実を言うと、わたしたちはそのすこし前に『失われたときを求めて』を読むことで、『源氏』を読むための用意をある程度していたのだった。

サイデンステッカー訳の『源氏物語』の翻訳って、ないだろうか?村上春樹レイモンド・カーヴァーを訳す調子で訳してもらったら、やっと読めるんじゃないかと思うな。
王様の「湖上の煙」に近い発想ですかね。