車内の読書

knockeye2006-08-14

日本の伝統 (知恵の森文庫)

日本の伝統 (知恵の森文庫)

今回の行き来では、岡本太郎の『日本の伝統』を読んだ。
一、伝統とは創造である
二、縄文土器
三、光琳 
四、中世の庭
五、伝統論の新しい展開
の五つの章から成っている。すべて私の生まれる前(つまり、かなりむかし)に書かれている。こういう本に接すると、今まで生きてきたのが無駄だったんじゃないだろうかと疑ってしまう。
最近の読書とのかかわりで言うとこんな箇所があった。

戦前、私がフランスから帰ってきたばかりのときでした。小林秀雄に呼ばれて、自慢の骨董のコレクションを見せられたことがあります。まず奇妙な、どす黒い壷を三つ前に出され、さて、こまった。なにか言わなきゃならない。
(略)
だが見ていると、一つだけがピンときた。
「これが一等いい。」
とたんに相手は「やあ」と声をあげました。
(略)
えらいことになったと思った。しょうがないからなにか言うと、それがいちいち当たってしまうらしいのです。だが私にはおもしろくもへったくれもない。さらにごそごそと戸棚をさぐっている小林秀雄のやせた後姿を見ながら、なにか、気の毒なような、もの悲しい気分だったのをおぼえています。
美がふんだんにあるというのに、こちらは退屈し、絶望している。
しかし、美に絶望し退屈している者こそほんとうの芸術家なんだけれど。

また

ほんとうの芸術家はかならずまた批評家です。だが絶対に鑑定家ではありえない。

とも。
小林秀雄白洲正子のしごとになんとなく物足りなさを感じるとしたら、彼らははたして創造したのかどうかという疑念。すでにある価値をあれやこれやと評価しただけ、か、よくて紹介しただけではないのかと思わぬでもない。
小林秀雄夏目漱石をまったく評価していなかったし、白洲正子は、『明恵上人』のなかで「法然上人の菩提心のなさ」を云々していた。これは独創性とか革新性について目が見えないことを示しているかもしれない。