骨董誕生

めがねさえかけていなければ傘の必要もないような雨がじめじめ降っている。松涛美術館へは渋谷駅から少し歩かなければならない。湿気が肌にまつわりつく気がした。
今回は横浜から東急。そのほうがJRより120円安い。ただ、田舎ものとしては駅の外に出るのにちょっと戸惑ったと告白しておく。これはまあ毎度のことで、いまだに横浜駅でもほんとのところは自分がどこを歩いているのか分かっていない。あの工事はいつ終わるのだろうか。この一年ずっと工事中だが。
駅を出てしまえば文化村通りを、最初はBunkamuraに向かい、やがて右手にそらしながら、あれはたぶん道玄坂という坂か違うか、ともかく坂を上りきる少し手前のかどを右手に折れればこの美術館である。
Bunkamuraのついでにちょっとのぞいてみることもある。それであの和田義彦の展覧会にも立ち寄ったのだ。盗作だったから金返せというわけにもいかない。たいして悪い絵とも思わなかったが、不思議なもので本物と並べられると、確かに偽物と分かる。あるいは、分かる気がする。盗作というよりほとんど模写だしね。
今回は『骨董誕生』という展覧会。骨董がいつ誕生したのかについては別に興味もないが、素人の考えでも千利休までは遡れるはずだ。したがって学者ならもっと遡れるのは当然だろうが、この展覧会が『骨董誕生』と銘打っている内容には、もうちょい地味な学芸員なら『青山二郎とその周辺』とか名付けたかもしれないし、『青山二郎と柳宋悦、骨董と民芸』とか、『青山二郎小林秀雄白洲正子の愛したものたち』とか題してみてもよかった。
わたしは最近、白洲正子の本をちょこちょこ読んでいて「なるほど」と思うこともあれば、「それはどうかなぁ」と思うこともあるのだが、間違いないのは鑑賞眼の確かさだ。青山二郎小林秀雄に鍛えられたそうだが、逸話としては、緑内障白内障の手術をするというころ、知り合いが絶対本物だと手に入れた漆盆をよくないものだと見抜いたというから恐れ入る。
こういういわゆる目利きという人は確かにいるもので、たとえば明治時代の町田久成などという人は、土はどこ、窯はどこと言い当てたそうだ。
白洲正子の仕事はこっちの方を抜きにしては片手落ちだし、それに青山二郎という人に興味があった。白洲正子には『いまなぜ青山二郎なのか』という著作があるが、この人こそ蒐集を抜きにしては語れない。
今回の目録の表紙は、青山二郎が「虫歯」と名付けた唐津の盃である。「虫歯」と思いつつこの盃を眺めてみる。最近はそうでもないが、子供のころは歯が悪くて虫歯に悩まされたものだった。この唐津の盃を「虫歯」と名付ける美意識が狭い意味で、その昭和のはじめごろにおける骨董誕生と呼んでいいものなんだろう。
しかしながら利休が「侘びたるはよし、侘ばしたるは悪し」と言ったと伝えられているように、そういう美の発見は目のものであり、手のものではない。推し進めていえば、結果であって目的ではない。そこにある美や文化をいかに愛したとしても、またそれが愛でる価値のあるものだとしても、そこを目的としてしまってはよくない結果になると思う。
仲畑貴志白洲正子をはじめて訪ねた際、持参した粉引の徳利をさして「その徳利はあなたです」と言われたそうである。たしかにそれが自分自身だといえるようなものでなければ、金を出して骨董を買う意味がない。かくして骨董の世界は好みに尽きるのだけれど、そこに普遍的な美がないかというと、共感を分かち合うことができるのだからそうとはいえない。
遠い昔に抜け落ちた虫歯を思いつつ、古唐津の盃に酒を注ぐ。飲めない私でもいい気持ちがする。松永耳庵が「酔胡」と銘した李朝の粉引徳利。手に入れた青山二郎は「狸の金玉」と呼んでいたそうだ。見ると色も形も大きさもまさにそのようであるが、この場合、「その徳利はあなたです」といわれたら、どう受け取っていいものだろうか。