うらなり

うらなり

うらなり

先日紹介した小林信彦さんの小説『うらなり』を読んだ。うらなりにとっては、坊ちゃんの行動はまるで理解できなかったのではないか?というのが、この小説を書く発端であったそうだ。坊ちゃんと同じく江戸っ子である小林信彦さんの自己韜晦でもあろうし、江戸っ子心理に対する複雑な感情も含まれているのだろうか。
そもそも小説『坊ちゃん』で展開するドラマにとって坊ちゃんは何の役割もはたしていないじゃないか?と思ったらしい。言われてみればその通りで、うらなり、マドンナ、赤シャツ、ヤマアラシ(これはほとんどすべて坊ちゃんがつけたあだ名だが)のドラマに、たまたま通りかかって茶々を入れただけの、いわば寅さんみたいなものである。
で、あらためてリアリズムにうらなりの立場に立ってみると、たしかにこんな風でもありえたわけだと納得される。マドンナとの再会の部分など、枯淡の味わいとでもいうべきである。
しかしながら、もしこの小説が遠い借景として『坊ちゃん』をいただいていなかったら、ここまで魅力的にはならなかっただろう。『うらなり』のリアリズムを『坊ちゃん』は軽々と飛び越えてしまう。丸谷才一がすぐれたモダニズムの小説と評価するのも実感として分かる気がする。特に「生卵」のくだりに対するふたりの解釈を読み比べてみると思わずにやにやしてしまう。
あとがきから興味深かった部分を紹介しておこうと思う。あとがきだから実害はないだろう。

書いていてもっとも乗ったのは、うらなりの送別会の件である。

漱石はここを〈坊ちゃん〉の視点から書いていて、物を知らない〈坊ちゃん〉ならではのくすぐりが多く入っているのだが、ぼくは反対側の席にすわるうらなりの視点から書いた。

(略)

この場面は漱石が乗りに乗って書いていることがわかる。つまり、ぼくの向かい側には、坊ちゃんと共に夏目漱石が存在しているわけで、書いているうちに、こちらに漱石の熱気がうつってくる。この〈熱気〉は何だろうか?ぼくの身体に特殊な電流が入ったようで、他のことなどどうでもよくなった。

この場面に限らず、何かが乗り移ったような緊張感が続き、筆圧の強いぼくは右手が痛くて、動かなくなってしまった。『うらなり』を書き続けるのは何とかできるが、あとはペンが一切持てない。鍼と指圧で少しずつほぐしながら執筆を続けた。

ちなみに『うらなり』には、その後の坊ちゃんは登場しない。よく考えれば、『猫』同様、坊ちゃんの名前さえわからない。坊ちゃんはどうなったんだろうなぁ。