小林信彦のコラム

今週の週刊文春小林信彦のコラムはうれしいことに「ディア・ドクター」。
こういう風に書くんだなぁ、映画評って、という感じ。
でも、気になったのは、
「・・・ぼくが観た映画館は音が悪く・・・」
と書いてあったこと。
実は、私が見たときもそうで、かなりの雑音があり、静かな場面が多い映画だけにけっこう気になった。途中でコマが切れるんじゃないかとヒヤッとした部分もあった。悪いプリントが出回っているのではないかと思う。配給側には再点検してもらいたい。
コラムの中でちょっと笑っちゃったのは、笑福亭鶴瓶について
「・・・この人は善人ではない、と思っている。」
もちろん、ほめているのだけれど、それは、関西人にとっては、何を今更というところ。
だいたい、関西で「善人」などというものが人気を博するはずがない。「ただの悪人」は、世界共通嫌われものだが、関西人は「ただの善人」が、それにワをかけてタチが悪いことをよく知っている。多くの場合、「ただの善人」は「ただのバカ」よりはるかに有害である。
関西人に「いい人ですね」といってみたとする。たぶん、かなり複雑な顔をするだろう。
小林信彦は、70年代以前から笑福亭鶴瓶を知っていると書いている。
私は、小説「悲しい色やねん」(森田芳光で映画化された)の、あの語り手は、たぶん笑福亭鶴瓶がモデルではないかとにらんでいる。もしくは桂文珍なのだけれど、あの小説を読んでいると、笑福亭鶴瓶の顔が浮かんでくる。
また「映画の終わり方がこれでよいのかどうか、ぼくにはわからない。」
と書いている。
映画のラストシーンについて、ああでもない、こうでもないと頭をひねる場合、それはその映画が気に入っている証拠だと思う。個人的経験からして。
でも、あのラストシーン、小林信彦のいうように、「説明的」っていえるのかなぁ。
八千草薫の心理という意味で「説明的」なのだろうか。
私は不思議な終わり方だったと思う。あれがなくても確かに成立するのだけれど、あそこまで描きたい人なのではないだろうか。
「ゆれる」のときもあのラストシーンは、バス停まで行かないといけなかったかなぁという気がしたのを憶えている。
前には触れなかったけれど、ラスト近くの公衆電話のシーンが気に入っている。
あそこの大阪弁は、たしかに身内にしゃべるときの大阪弁だと思う。
ちなみに、笑福亭鶴瓶大阪弁は、師匠の笑福亭松鶴が「こいつの大阪弁がほんまの大阪弁や」といった大阪弁である。