- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,小野寺健
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/09/01
- メディア: 文庫
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・・・八四年当時は原題の意味がはっきりしないまま物語の内容を示唆するものを工夫したのだが、今回は、その後あきらかになってきた原作者の意図を汲んで、多少とも原題を活かしたものに近づけた。
"A Pale View of Hills"。なんなんでしょう?原作者の意図。
訳者は小野寺健。この人はアニータ・ブルックナーに惚れ込んで、作品を翻訳出版し続けていた人だ。アニータ・ブルックナーは、もしこのブログに迷い込んだ人がいて、興味を持ってくれる人がいたらうれしいと思っている作家のひとり。小野寺健は、信頼できる翻訳家で、もしかしたら自分で作家を選んで翻訳できる立場なのかもしれない。
登場する日本人の人名表記が、どうして漢字なのだろうと不思議に思っていたが、カズオ・イシグロ自身から「この人にこの漢字はやめてほしい」という旨の連絡があったそうで、それじゃぁ、ということで漢字を当てはめたそうだ。訳者のセンスをうかがわせるよい名前になっていると思う。
解説が付いているが、これが池澤夏樹。週刊文春の書評欄を楽しみにしているひとなので、思わぬところで役者がそろって、ひそかにうれしい。
作家には、作中で自分を消すことができる者とそれができない者がある。
(略)カズオ・イシグロは見事に自分を消している。映画でいえば、静かなカメラワークを指示する監督の姿勢に近い。この小説を読みながら小津安二郎の映画を想起するのはさほどむずかしいことではない。特に、旧弊な緒方とそれを疎ましく思っている息子二郎の関係を第三者である悦子の視点から見る描写など、まさに悦子は低い位置に固定されたカメラである。そして、作者のイシグロは更にその悦子の背後にひっそりと隠れている。この自信は無視できない。
たしかに小憎らしいほどの自信に見えるが、しかし、うっかり読まされてしまう。人物名に作者の知らない漢字が当てられているのを、せめてもの腹いせとしましょうか。