米朝一門三国志

knockeye2006-11-17

今日はちょっと余裕があったので、メルトが冷えていくところを眺めていた。モノづくりの現場って、カネとか人事とかに超然としたものがある。だから続けていく気にもなる。ま、これはわたしだけの考え方だが。
そろそろ、米朝一門会のチケットなどが話題にのぼるころ。はてなで「今、聴いておくべき落語家は誰ですか?」という質問があって、またぞろ吉朝のことが思い出され、つくづく上方落語が寂しくなったと思う。
つらつらかんがみるに、上方落語の四天王、桂米朝笑福亭松鶴、桂春団冶、桂文枝の面々が、戦後、いったん滅びかけた上方落語をなんとか復興させてきた流れは、桂吉朝の死でひとまず途切れた。今、上方落語は、ふたたび方向性を見失っている。
米朝一門を三国志にたとえてみる。米朝師匠が劉備玄徳、枝雀が関羽吉朝諸葛孔明とすると、ざこばは文句なしに張飛である。関羽の兄貴が一番最初になくなったのは三国志どおりだが、後の順番が違う。ぴんぴんしているのが張飛だけではどうにも鼻じらむ展開じゃなかろうか。人の上に立つ器じゃない。
ざこば、南光の落語は嫌いじゃないが、それだけで客が呼べるかっつう話。ざこば、南光をききながら、客はけっきょく米朝落語の残照を楽しんでいるのである。その点、枝雀はちがった。なにしろ、お正月には米朝一門会とは別に枝雀独演会があったほどだ。当時、米朝事務所は二枚看板がたてられたということだ。
それにくらべると吉朝はたしかに米朝落語の継承者という色合いが強いが、ただし、客はそこに米朝落語の新しい展開をみていた。けっして残照ではなかった。
松鶴の一門に目を移すと、仁鶴は健在だが、松鶴を継ぐはずだった松葉が奇病で急逝してしまった。松鶴の名は死後おくり名されて、しばらくは空席になる。そういえば、吉朝にも米団冶を継ぐという話もあったみたい。
こういうのを「死児の歳を数える」というのでしょうな。