『藤田嗣治「異邦人」の生涯』

藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)

藤田嗣治「異邦人」の生涯 (講談社文庫)

先日、キスリング展の出口で買っておいた近藤史人著『藤田嗣治「異邦人」の生涯』を読んだ。

人は勝手に理屈をつけて世間の口はうるさいが、一人の口から漏れて何千の人の耳に伝わってそれが広まっても、私は始終、0が何万集まっても0に過ぎず、一のほうが強いと言っている。

藤田嗣治が日本人でなくとも、その絵の価値は変わらない。そういう日本の画家は、明治以降では藤田だけである。藤田がいなければ、明治から戦前の画家はたしかに0である。
そういう国際人の生涯を通してみると、明治以降の日本という国のあり方がよく見える。日本の当時の美術界といっても、藤田の絵に限らず、パリの画家たちの絵を実際に見ている人たちが何人いたのだろうか。日本の画壇がそれほど成熟していないのはたしかだろう。
そういえば、つい最近、和田義彦の盗作が暴露されたが、彼は日本では権威ある賞まで授与されていた。日本の美術評論家が誰も盗作に気がつかなかったのは間違いない。どうだろう?あまり進歩がないのかも。
藤田という人は、サービス精神旺盛で、しかも器が大きく、目に曇りがないひとであったようだ。彼を頼ってパリに来た画家たち(かなりの数に及んだ)の食べ残した皿を彼自身が洗っていたというから驚いてしまう。一日14時間も絵を描いていたのにだ。
当時パリに戸田海笛という変な画家がいた。同じような構図の鯉の絵ばかり描いている。が、それが妙に人気があった。アトリエに日本刀を並べ、本人は紋付袴で練り歩いていた。
今では、殆ど知られていない人だが、著者が取材を進めると、この人、実は彫刻家で日本では少しは知られていた人らしい。彫刻で一旗あげんと渡仏して、当初は研鑽しきりであったが、生活のためにレストランのメニューに書いた魚の絵がけっこう受けた。
で、彫刻のついでにサロンにも魚の絵を出品すると彫刻は落選したのに絵だけ当選。それから、魚の絵の専門家に転向した。日本刀に紋付袴の演出が始まったわけである。
こうなると、だんだん日本の友人は離れていく。これは無理からぬと思えるが、藤田の見方は違った。

戸田海笛君は、人物が豪放闊達で、人を人と思わないところが実に愉快である。あの性格が絵に現れてきたら面白いものができるであろうと思う。始終、鯉の絵ばかり描いているが、同じものを百枚描けば百枚だけうまくなるから不思議だ。

海笛が44歳で客死した際、葬儀を取り仕切ったのも藤田だった。
はじめの志と違っていたとしても、評価されるものはよいものなのである。よくなければ評価されない。藤田の目に偏見がなかったよい証拠だと思う。
戦争画をめぐるいきさつは、幼稚のひとこと。たかが絵じゃないか。A級戦犯が平気で総理大臣になっているのに、そんな重箱の隅つついて何か意味があるだろうか。
愛国心は悪党のよりどころといったのは、サミュエル・ジョンソンだそうだが、愛国心という言葉は、戦中戦後を通じて、中身をすりかえながら使い続けられる、役人の金科玉条であるようだ。