肝心の子供

knockeye2008-01-07

肝心の子供

肝心の子供

こういう風に、削ぎ落として、削ぎ落として書いていくのはプロの技である。
シャカ族三代の年代記を全く仏教抜きで書いてしまう試みは、実に大胆。登場人物のひとりひとりも魅力的で印象的。こういう手工芸的なみごとさは、一般に日本的と言われてきたことかもしれない。
たしかに、これに仏教のドラマまで踏み込んでしまうと、迷路にはまることを覚悟しなければならないだろう。それに、たいがい成果はあげられない。釈迦を語るのに、(ということは、とりもなおさず仏陀をかたることだが)仏教をはずしてもいいじゃないかと思えるほどに、社会は多様化し、価値は相対化してきているのだろうと思う。だからこそ、登場人物がそれぞれに抱える孤独感と、読者が共鳴するのだろう。
長さは長編とはいえない。どちらかといえば、短編といってもいいくらいの長さである。中沢新一の『三位一体モデル』と同じくらいの長さで、午前中に読み終えてしまった。
昨日は、歩き回った疲れで途中で眠ってしまった。
『転々』の話だが、全共闘世代といまの若い世代が、東京を歩くという設定は、東京という町を照らし出すなかなか良い装置だと思う。戦後、東京を最初に町にした若者が、全共闘世代だったのかもしれないし、そうだとしてもおそらくそれは無自覚であろうけれども、同じく無自覚に違いない、リアルタイムの若者と、空間としては同じ東京を全く違う視点で歩き回ることで、なにかしら見えてくる風景がある。そこが、この作品の最大の魅力であろう。
その意味では、そのいれものの中で展開するさまざまな物語は、ある意味では入れ替え可能で、語弊を怖れずに言えば、添え物にすぎない。ただひとついえることは、その物語が東京という町を語っているその度合いの強さによって、選び取られるべきなのだろう。わたしが借金取りの物語に重きを置いている映画の方にかたむくのも、そちらのほうに年齢が近いというだけのことかもしれない。
理想を言えば、この二人の間に強い緊張、響き合うと同時に簡単には和解できないコントラストが描ききれていれば、この作品はもっと味わい深くなっていたことだろう。
小説のほうで言えば、最後のどんでん返しは、いかにも苦い。この苦さは簡単に和解できるものではないが、残念ながらそれは最後にしか出てこない。それに、特に東京という場にかかわる物語ではない。
映画は実際の東京を映像として使えるメリットはあるが、監督の趣味で要らん小ねたが多すぎたのも事実なのである。ただ、岩松了松重豊ふせえりの三人組と、岸部一徳のシーンはアイデアであった。
こうやってあれこれ考えていくと、やっぱりいれものだけが同じで、小説と映画は中身がまるで違うということなのだろう。このいれものを最初に考えた藤田宜永に拍手である。