映画『三島由紀夫vs.東大全共闘 50年目の真実』ネタバレ

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三島由紀夫vs.東大全共闘

 この映画も、この新コロナウィルスの影響で足止めを食らっていた映画のひとつだったが、ようやく観に行くことができた。
 「日本が(あるいは世界が)右傾化している」なんて言説が最近の流行りであるが、私はそうは思わない。というより、右翼、左翼というカテゴライズにリアリティがあると思わないし、これまでもあったことがないと考えている。
 三島由紀夫と東大全共闘といえば、これはそれぞれが、もし右翼、左翼というカテゴリーでしかものを観ない人にとっては、ゴリゴリの右翼対左翼の対決ということになるだろう。そういう視点しか持たない人は見に行かない方がいいと思う。おそらく何も見えないし、何も得られないだろうと思う。
 この討論会というかシンポジウムというかは、東大の安田講堂が陥落した翌年、1969年、駒場の東大教養学部の教室で、千人の東大生と三島由紀夫が語り合う形でおこなわれた。翌1970年11月には三島由紀夫は市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で割腹自殺する。
 全共闘側から考えても、三島由紀夫側から考えても、このタイミングは、すくなくとも外野からながめるならば、かなり緊迫したタイミングであったと考えられるし、なんなら、殺気立っていてもおかしくないと予想されると思う。
 現に、これを企画した全共闘の側からも、また、盾の会からも万が一に備えて最前列に人を配していたそうである。
 もっとも、全共闘が心配したのは、むしろ、民青の妨害だったそうだ。この会を主催した木村修の回想によると、当時の駒場キャンパスはほぼ民青の支配下にあった。このシンポが行われた教室周辺だけがその影響を逃れていたという。その意味でも、この会が行われたのは奇跡的なことだった。
 しかし、そのような状況であるにもかかわらず、この対話は、なごやか、というと少し違うことになるが、いま、ネットで、聞くに堪えない罵り合いを毎日のように目にしている私たちからすれば、あえていえば、知的な空気のなかですすんでいったというしかない。
 三島由紀夫自身が「反知性主義」ということを言うのだけれども、その言葉すら知的にひびく。考えてみればそもそもの「反知性」は「知性」のことばなのだった。今、反知性といわれているものは、知性のアンチテーゼですらない、もっと別のものだろう。
 三島由紀夫が「反知性」を口にするのは、丸山眞男にふれたときだった。大学紛争のころ、丸山眞男は研究室に乱入した学生たちにつるしあげられた。また、当時の学生たちのアイコンだった吉本隆明丸山眞男を批判していた。
 私は、個人的にはこのあたりの感覚がよくわからない。吉本隆明丸山眞男、の両方にシンパシーを感じていた鶴見俊輔は大いに弱ったと語っていた、むしろ、その感覚の方がわかりやすい。この両者に対立しなければならない何かを感じない。 
 しかし、三島由紀夫が自分を「反知性」だと定義するときには、丸山眞男は「知性」の側に置かれているわけである。丸山眞男三島由紀夫吉本隆明の世代の間には戦争がある。三島由紀夫吉本隆明の世代は、自分が戦地で死んだかもしれない、もっと言えば、現に友人が戦地で亡くなっている。
 そういう彼らにとって、いわゆる「オールド・リベラリスト」の「知性」は、無効が証明されているととらえざるえなかったし、そういう彼らのいう「反知性」は、三島由紀夫全共闘もどちらにとっても、そうした現実に対して無効だった、歯が立たなかった「知性」に対するアンチテーゼとしておかれた「反知性」だった。
 にもかかわらず、このシンポジウムをリードしたのが、三島由紀夫の知性、というのが妥当でないなら、理解力であったことは間違いない。学生たちに問われたことに対して、よどみなく、しかもユーモアを交えて的確にこたえる言葉の切れのよさはやはりさすがだと思った。 
 それでも、学生たちから上がる質問がくだらないものばかりだったら、こうはならなかったと思う。
とくに、芥正彦の質問が三島由紀夫のギアを入れたように思えた。
 芥正彦の質問はしかし、学園紛争とはほとんど関係ないように思える。というより、それよりはるかに本質的であり、であるがゆえに、概念的にも思えた。芥正彦はのちに(当時からすでにかもしれないが)演劇界の人になった。初めからそういう方向のひとであるために、問いかけがぜんぜん政治的ではなく、存在とか表現に問題意識がある。
 おそらく、学生から上がってくる質問が、右だの左だのの政治的な問いだけだったなら、三島由紀夫はすぐに退屈してしまったろうと、彼らの質問を聞いていてそう想像した。しかし、そんな質問をする学生はひとりもいなかった。
 そもそもこれを企画した木村修が、「他者とは何か」ということを質問するところから始まったのである。三島由紀夫全共闘であるから、この質問はたしかに口火を切るのにふさわしかった。
 三島由紀夫は、サルトルの『存在と無』を例に答えた。サルトルは、「いちばんエロティックなのは縛られた女の体だ」といっている、つまり、人間にとって快楽なのは、主体性を奪われた他者なのだと。しかし、現実の他者はそれぞれに主体性をもっている。自分とは異なる主体性を持っている他者こそ他者で、三島自身は、ずっとエロティックなものを求めてきたが、今は他者がほしくなったと言った。
 芥正彦が割り込んで言ったのは(ここは私の理解が間違ってるかもしれない、映画を観て確認してほしい)、自他に意味があるのかってことだったと思う。そこで自他をわけているのが、つまり、文化であったり知性であったりするわけだから、むしろ、そこからの解放をめざすべきなんじゃないのかってことだった。
 これはちょっと聞くと、ラジカルすぎて子供じみているように聞こえるかもしれないが、三島由紀夫自身の、認識か行動かという問題意識の根っこの部分をついていたと思う。そこからさらに進んでいくと、いろんなところに突っ込んでいくことになる問題ではないだろうか。他者とは何かは難しい問いだと思った。そこから、社会が生じ、政治がはじまるわけだから。
 しかし、三島由紀夫はちょっと意外なことを言うんだった。
 天皇について、「もし諸君が『天皇』の一言を言ってくれたら、喜んで一緒に戦った」と。天皇親政と直接性民主主義は、けっきょく同じじゃないかと。
 これが何重にもするどいのは、全共闘共産主義でも何でもないことを見抜いていたってことと、であるならば、それは戦前の青年将校たちの「天皇親政」の夢想と同じじゃないかと、それがどちらも夢想に過ぎないこともふくめて見抜いていたことだ。
 三島由紀夫は、なんといっても、今では例える人のいないくらいの、その当時、スターだったので、全共闘の反対の、その弾圧に当たった側の人間とも会って話したこともある。しかし、彼らの目の中には一切「不安がなかった」と言っていた。「不安のない人間は嫌いだ」と。
 「自分は、非合法の暴力を否定したことは一度もない」とも言っていた。むしろ、「合法的な暴力」をこそ否定したいとも。
 だから、自分が何か暴力をふるうときには、君たちと同じく非合法にやるしかないので、そのときは警察の厄介になる前に自決でもするしかないと、この時語っていたことを、この時点で本気で聞いていた人はいなかったと思う。
 会場から、「三島を殴るって聞いたから来たのに、ごたごた言ってるだけじゃないか」とヤジが飛んだ時、芥正彦は「だったらあがってきて殴ればいいじゃないか、上がってこい」と言って、そいつを壇上にあげさせた。そして「おれを殴るの?、三島を殴るの?」と、さも普通のことのように聞いた。大学構内で実際に殺しあっていた時代だった。
 主催の木村修に、のちに三島由紀夫から電話があったそうだ。盾の会に入らないかという誘いだった。木村が煮え切らない返事をしていると、三島が「まわりに誰かいるのか?」と聞いた。当時付き合っていた彼女、今の奥さんがいた。代われというので代わった。その時、何を話したのか、ずっと聞かずにいたのだそうだが、今回のことがきっかけで初めて聞いたそうだ。三島はあのとき「あなたは木村を愛していますか?」と聞いたそうである。
 坂本龍一があるインタビューで、当時「大人はすべて敵」だと思っていたと語っていた。この感覚は、実は、日本だけではなく、世界規模なもので、こないだのノルベルト・フライによると、当時の若者は「30歳以上は信用するな」と思っていたそうである。
 しかし、同じ世代的な断絶のなかからでも、アメリカでは、当時のフラワーチルドレンの中から、今のインターネット文化が生まれてくることになった。彼らは自分たちのカルチャーを手放さなかった。
 この映画の中で、内田樹が語っていたのだが、日本ではこの全共闘世代が、その後、ずっと言葉を失ってしまったかのように見える。この人たちは、三島由紀夫が、「君たちの熱情だけは信じる」と言ったその熱情をどこかにやってしまったのだろうか。芥正彦はふりかえって「言葉で通じ合えた最後の時代だった」と語っていた。
 三島由紀夫の自決は、今ではひどく浮いて見える。まるで、歴史のオーパーツのように見える。しかし、実際には、それ以降の50年の歴史の方が狂っているのかもしれない。
 「知性」に対置した「反知性」というアンチテーゼを、私たちは止揚できなかったのかもしれない。または、その止揚した結果が80年代のノンポリポップカルチャーだったのだとしたら、それに対してはもういちど、別のアンチテーゼを対置してみなければいけないときなのかもしれない。
 
 
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