『コリーニ事件』ネタバレ御免

f:id:knockeye:20200614204101j:plain
映画「コリーニ事件」

 フェルディナント・フォン・シーラッハのベストセラー小説を映画化した『コリーニ事件』を横浜ブルク13で観た。なお、以下の記事ではけっこう盛大にネタバレを書いている。気になる人は読まないように。
 映画を観た後、小説も読んだ。この作者は弁護士でもあるので、ドイツの法廷や法曹界、それに実際の裁判の手順などが実にリアルで読みごたえがあった。
 小説と映画では、細かいところが、けっこう大胆に変更してある。たとえば、映画では主人公がなぜかトルコ系になっている。したがって、主人公と、コリーニ事件の被害者ハンス・マイヤーとの関係も微妙に違ってくる。
 それに、コリーニの父親が処刑される経緯もまったくちがう。また、コリーニがハンス・マイヤーを殺害する場面もちがう。主人公とハンス・マイヤーの孫娘ヨハナ・マイヤーの関係も違うし、ヨハナ・マイヤーの立場も違う。検察側弁護士マッティンガーの戦術も違う。
 そのあたり、この原作小説は長編と言いつつかなり短めなので、読みくらべてみると、シナリオの意図がいろいろ想像できておもしろいと思う。
 にもかかわらず、映画も小説もどちらも面白かった。それはたぶん、面白さの本質が、徹底的に論理的なので、その骨格をゆるがせにしなければ、映画と小説で肉付けを変えるってことがしやすかったのかもしれない。
 わたしは映画の肉付けの方が好きかもしれない。ただ、その骨格を作ったのはもちろん原作小説なのだから、オリジナリティーの評価は小説にある。これはでも、好みがわかれるのだろう。
 映画はナチス戦争犯罪についての復讐劇。このテーマがいまだに新たに映画や小説になり続けることは興味深い(日本でもそうなのかもしれないけれど)。
 今回の映画がユニークなのは、映画の舞台となる2001年と事件の発端となった戦時中の1943年の間に、1968年という、奇しくもこないだノルベルト・フライの本で取り上げられていた年がここでもまた、ストーリーの、いわば、梃子の支点となっている。
 この梃子の支点の効かせ方が映画の方がドラマティックになっている。小説は文字情報なので、あまりそのあたり複雑にしなかったんだろう。映画の方が検察と弁護の攻防、駆け引きのターンが何回か多くなっていて、そのあたり映画の方が「手に汗にぎる」展開で、そこが映画の方が好きだと感じる点かもしれない。
 この映画は、まるで実話みたいだけれども、徹頭徹尾つくりばなしらしい。ただ、パルチザンのテロに対する報復処刑は実際に行われていた。『ハイドリッヒを撃て!』という映画でも、レジスタンスに対するナチの報復が描かれてましたね。
 『ハイドリッヒを撃て!』では、戦争の真っただ中で戦われたレジスタンスそのものが描かれていたわけだけれども、『コリーニ事件』では、それから四半世紀後の、しかも、ドイツの側から、それがもう一度とりあげられているわけだ。
 コリーニを演じた『ジャンゴ』のフランコ・ネロの存在感はもちろん圧倒的なんだけれども、個人的には、法廷の参審員である、ほとんどエキストラに近い一般のドイツのひとたちの描写が興味深かった。ナチスレジスタンスに対する処刑の残酷さにたじろぐ感じ、とか、その処刑が法的には罪ではない、と、なりそうになったときのモヤモヤと割り切れない空気とか、それは、小説では描きえない微妙なところだと思う。
 それに、今回の映画で実はいちばん感銘を受けたのは、法廷が結審(というのか、ともかく)した後の、ハンス・マイヤーの孫娘ヨハナの表情だ。
 自分の祖父、それまでは、良い思い出しかなかったし、実際、周囲の誰彼からも敬愛を集めていた祖父が、ナチスの親衛隊の残酷な将校だったと知ったときの、悲しみでも、怒りでも、苦しみでもない、よりどころのない表情。それはたぶん、多くのドイツ人が、人生で一度は(あるいは何度も)経験したことのある感情なのではないかと思った。
 ヨハナの最後のセリフは、小説では「わたし、すべてを背負っていかないといけないのかしら?」だったが、映画では「わたしもお祖父さんと同じ?」だった。これは、映画と小説では主人公カスパーとヨハナの絡み方が違っているので、そうなる部分ではあるのだが、どちらにしても字面上の意味はさして重要でない。
 これに対するカスパーの答えも映画と小説ではそれぞれ違っている。映画では「君は君さ」だった(字幕ではね、ドイツ語分かりませんし)が、小説では「きみはきみにふさわしく生きればいいのさ」だった。小説の方は巻頭辞に使われている、アーサー・ヘミングウェイのことば
「われわれは自分にふさわしい生き方をするようにできているのだ」
に呼応している。
 が、映画は小説と違って、言葉だけではなく、生身の役者の演技と表情でそれとはまた別の表現が可能になる。映画のあのヨハナの表情、よるべない表情が実にリアルだった。そして、それは、ほぼエキストラにちかいような参審員の人たちの表情とと併せてリアルなドイツを感じさせてくれた。
 「すべてを背負っていかないといけないのかしら?」は、考えてみれば奇妙な問いかけである。まず、「すべてを背負う」とは何なのか?。それが、祖父の罪をかぶるという意味ならそんな必要はないのはいうまでもない。ましてや、ナチス戦争犯罪者の身代わりになる必要などあるはずもない。
 それは、一面では美しい一方で、また別の一面ではきわめて醜悪な幻想というものだ。他人の罪なんて背負えないのだ。
 私たちに置き換えて考えれば、旧日本軍の中国大陸やアジアでの残虐行為について、若いころは、「これはわたしたち日本人が自分の問題として考えなければならない」と思っていた。しかし、それは間違いだと気が付いた。
 旧日本軍がどれほど残虐だったからといって、それを「自分のこと」と捉えたりするのは、ナンセンスでしかない。それは、イチローメジャーリーグ屈指のプレーヤーだからといって、私自身が野球に秀でていないのと全く変わりない。
 それはどちらも「国家幻想」というやつなのである。つまり「日本人はエライ」と思っているのもバカなら「日本人は残虐だ」と思っているのもバカなのである。それは「国家幻想」が右に転んでいるか、左に転んでいるかのちがいにすぎない。
 そんな「国家幻想」から一歩引いてみる目を持つことが健全な目なのだった。そういう目で見れば、慰安婦問題っていうのは、韓国の右翼と日本の右翼の罵りあいにすぎなかった。飛び交っていたのは彼らの幻想にすぎず、実際の元慰安婦は置き去りにされていたことが今明らかにされている。
 「すべてを背負わないといけない」はこんな具合にばかげているわけだが、それとはまた別の意味でもばかげている。というのは、いずれにせよ、人はみな「すべてを背負っている」に決まっている。なぜなら「すべて」はその人の認識する「すべて」にすぎないわけだから、「すべて」と認識した時点ですでにすべて背負っている。他人に聞くまでもない。
 こうやって書きながら、これもまたドイツ映画の『ブルーム・オブ・イエスタデイ』という面白い映画があったのを思い出した。

ブルーム・オブ・イエスタディ(字幕版)

ブルーム・オブ・イエスタディ(字幕版)

  • 発売日: 2018/03/01
  • メディア: Prime Video


ドイツで記録的ヒット!『コリーニ事件』予告編