『夜明けのすべて』

 三宅唱監督新作。
 この人の過去作品では佐藤泰志の小説を映画化した『きみの鳥はうたえる』を観た。これは原作も読んだので比較できるが、ラストが原作とまったく違う。このラストを撮りたいがためにこの原作を選んだんじゃないかと思うくらい。原作をよく読み込んでいると感じたし、映画が原作の批評でさえあるような素晴らしい脚色だった。
 しかし、キネマ旬報ベストテンで4冠を獲得した『ケイコ、目を澄ませて』は、世評の高さにも関わらず、そして、『きみの鳥はうたえる』が気に入っていたにもかかわらず、結局、観にいかなかった。
 『100円の恋』は好きだし、『ミリオンダラーベイビー』も観てるけど、女性のボクシング映画は、もういいかなって気分でもあった。それに、主演の岸井ゆきのは、『ピンクとグレー』、『やがて海へと届く』など実力派女優なのはわかってるのだけれども、今の気分として、たとえ上手い演技だとしても、見せどころが演技の力量であるような映画は億劫かもという、まったくの先入観で足が向かなかった。
 逆に言えば、その引け目があったからこの映画を観ることができたと思えば、一観客としてはそれはそれでよかったかもしれない。
 パニック障害を発症した青年(松村北斗)とPMS月経前症候群)を抱える女性(上白石萌音)が、偶然、同じ職場で働くことになる。一昔前前なら、バブルでイケイケの頃の日本なら、このシチュエーションはコメディでさえありえたかもしれない。しかし、今は、多くの人々がこれを他人事とは思えない。そういう時代的な確かさがある。その意味で『パーフェクト・デイズ』と似た手ざわりがある。あの映画と同じくこの映画も周囲の人たちの描写もすばらしい。
 あの会社について、監督インタビューでこう語っている。

「そういうところを見てくれるのは嬉しいです。それが、僕が今回やった仕事のほぼすべてだっていうくらい。ちょっと間違うと、ただのだらしない会社になったり、逆にシステマチックになりすぎたりする。あの絶妙なニュアンスを作れたのは、俳優陣のおかげです。」
「あの社員たち、超優秀なんです。彼らを演じたのは、自分より年上のベテラン俳優たち。プレッシャーはありましたけど、みなさんがこの映画を全身で楽しんでくれて、やっぱり一緒に作れた感じ。時間も限られた中、よく同じ画面内で、同時に複数の芝居をしてくれているなあと。」
 光石研をはじめ会社の同僚たちもすばらしいが、松村北斗の元上司を演じた渋川清彦もいい味を出していたし、丹念に描かれていた。
 「二人(松村北斗上白石萌音)をカメラで捉える際は、どんなことを意識していましたか?」、という問いに対しては
「二人を同時に映すこと。それも、なるべく等しい距離から。結果的にそれが一番面白いっていう発見がありました。それはさっき話したように、自分じゃなく相手を見ている、というか、相手を通して自分のことも再発見している二人だからなのかな。彼らの間には、目に見えない何かが生まれています。それをなんと呼べばいいかはわかっていないですけど、それが映っていると思います。目には見えないけど。」
「あと、二人がやりとりしているということのリアルを撮りたかった。二人の“間”は、たとえばカットバックで撮影すれば後から編集でいくらでも捏造できてしまうものですけど、そうではなくて、二人をそのまま産地直送したかった。」
 こういう作業が原作を実写化する意味なんじゃないだろうか。
 「社員の息子である中学生のダンくん(サニー・マックレンドン)が部活動の一環として、もう一人の部員と一緒に、栗田科学のドキュメンタリーを撮」るのも原作にはないそうだが
「これは青春小説ではないなと思ったんです。働く人たちの物語ですよね。だからこそ、彼らより若い、就職する前の人にも出てきてほしいなと思って。」
 と同時に
「インタビューでこの会社が何をやっているかを端的に説明できるし、なんて考えていたら、それ以上に、めちゃ魅力的な二人に出会えた。二人とも真剣で、めちゃ好きでしたね。」
 ラストも原作とは違うそうだ。インタビュー記事にリンクしておくので是非確認していただきたい。原作小説の映画化はそれ自体がひとつの創造であると言えるのはこういう行為を指すと思う。
 たとえば濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』の原作は村上春樹の短編だけれども、原作を離れつつ村上春樹の世界観を感じさせる。それでいて濱口竜介自身の演劇論でもある離れ業のような脚本だった。カンヌで脚本賞を獲ったのもうなづける。
 話が逸れてるのは、『セクシー田中さん』の事件があったからで、小説から映画への脚色の場合は、時間的な制約があるし、文字作品を視覚作品に移し替えるわけで、映画化は初めから脚色が折り込まれている。
 これに対して『セクシー田中さん』のようなマンガからTVドラマという場合は視覚作品から視覚作品への翻案である時点で、原作の持っているイメージの力強さを実写が超えるってことは至難の業。実際には、TVドラマのキャラクターは原作のイメージに依存している場合が多い。ハリウッドでも日本マンガの実写化で成功した例は思いつかない。
 つまり、『セクシー田中さん』の脚色は、設定やイメージをほぼ全面的に原作に依存しつつ、原作に対するリスペクトも批評性もない、原作に対する冒涜だったと結論してよさそう。
 想像するに『セクシー田中さん』の脚本家は、原作を読み込むこともせず、設定だけもらって、流れ作業でありきたりなラブコメディーを量産するだけが得意な、TV局にとってだけ便利な脚本家だったのだろう。それがよい脚本家とされている日本のTVドラマの現状からはよい作品は生まれてこないのだろう。

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