去年の日本映画の中で『市子』をベストにあげていた人もいたそうだ。あの映画に主演した杉咲花は、私が彼女を初めて認識した『湯を沸かすほどの熱い愛』からとにかく上手い。しかし、杉咲花にかぎらず、その上手い演技を見たくないって感じ、分かっていただける人も少なくないと思う。
演技が上手いってことは間違いなくよいことで、上手い演技を「くさい」とか「演技過剰」とか貶すつもりもないのだけれど、しかし、映画を観終わったあとに「演技が上手かった」って印象が第一に来る映画はそんなに好きではない。
小津安二郎や濱口竜介の映画はその対極にあるわけだが、そういう意味ではこの『彼方のうた』もまたそういう映画のひとつ。
監督の杉田協士のインタビュー動画によると、主人公が参加している映画のワークショップは、監督自身が現に15年以上やっていることだそうで、映画のなかでは「あの日、あの時、あの会話」となっていたが、初めてカメラを回す人でも、その人の実際の記憶にあるひとつの短い時間を映画化してもらおうとすると、どうやって撮るか迷う人はいないそうだ。
そうして迷いなく撮られた数秒間の映画は、シチュエーションがわからなくても、登場人物の関係を知らなくても、それを観る時いつも感動する。
それを15年ずっと観続けている杉田協士にとっては、そうした「初めて映画を撮る人の人生の一コマ映画」が自分の中での映画のトップなのだそうだ。杉田協士がフィクションで映画を撮る時にも、それが越えられないハードルとしていつも意識にある。普段ワークショップで生徒さんたちに言っているように、説明はいらないので、ちゃんと自分の心の震えたシーンを撮るってことを自分の戒めにしているそうだ。
そういうふうに撮られているこの人の映画の、前作の『春原さんの歌』は短歌が原作、今回はオリジナル脚本、というその違いは、撮っている時にその短歌が浮かんだか浮かばなかったかの違いにすぎないようだ。短歌が原作ってのを文字通りに信じちゃいけない気がする。
監督自身が「こんなにネタバレ話していいかわからないんですけど」と言いつつ、主人公が「駅のホームで」と剛(眞島 秀和)に言う、どう目を凝らして観ても映画の中ではそれ以上わからないセリフは、監督も後で気がついたそうなんだが、第1作の『ひとつの歌』と繋がっているんじゃないかと、誰かのツイートで気がついたそうだ。
また、喫茶店キノコヤの店員は、『春原さんの歌』の主役・沙知を演じた荒木知佳だが、あれは『春原さんの歌』から二年後くらいの沙知その人だそうだ。「映画が終わってもその人の人生は続くので」って言葉で思い出したけど、今泉力哉監督も『窓辺にて』の時にそんなことを言っていた。
わからないところは観客がどう想像してくれてもいいそうだが、「こうですか」と聞かれれば「違います」と答えるそうだ。禅問答か量子力学論のような話。
しかし、このスタイルの映画はこれでいったんケリがついたと感じているという監督の言葉もこちらの鑑賞後感に合っている。ラストシーンを撮った後、ファーストシーンを撮り直したそうだ。
その意味で『春原さんのうた』を見逃したのは残念だった。配信はしてないそうなので『彼方のうた』に大きな賞でも撮ってもらって、その記念上映がされるのを待つしかないか。