『落下の解剖学』ネタバレ。

 雪の山荘でひとりの男性が転落死する。その殺害を疑われた妻をめぐる法廷劇。というと、例えば、三谷幸喜の『12人の優しい日本人』も、ホロコーストの有無をめぐって争われた『否定と肯定』も、コミカルであれシリアスであれ、真実をめぐって争う両陣営のやり合いがそのまま映画のドライビングフォースになっている場合が多いのだけれど、今作は、疑われた妻が主人公で、彼女自身も真相がわからないまま、真実とはまったくかけ離れたところで、彼女に対する評価がゆれうごく、もちろん、観客の寄り添い方もゆれるわけで、そうした、評価の揺れに翻弄される女性に視点があることがユニーク。『12人の優しい日本人』を比較に出せば、あの法廷の被告は姿も見せない。
 翻弄される主人公に、サンドラ・ヒュラーのニュートラルな存在感がすごくマッチしていた。面白いのは映画の中で彼女だけがドイツ人で、あまりフランス語がうまくない。とはいえ職業は小説家でそこそこ売れている人なので、自己を表現する術を知らない哀れな被告って感じではない。その設定もニュートラルに設えられている。
 監督はジュスティーヌ・トリエ。脚本はアルチュール・アラリとの共同脚本。この2人は実生活で夫婦だそうで、映画内で死んだ夫も作家なので、この法廷劇は、一方で、私小説的なリアリティも兼ね備えている。ちなみにアルチュール・アラリは『ONODA 一万夜を越えて』の監督、脚本をした人。『ONODA 一万夜を越えて』も、日本での興収はどうだったか知らないけど、政治的なメッセージや、戦争映画的なアクションではなく、敗残兵の日常を描いていてすごく面白かった。
 作家夫婦、映画作家夫婦って存在も今ではそんなに珍しくない。夏目漱石の奥さんが実は作家なんて状況はちょっと想像しづらい。もっとも、夏目鏡子夫人はのちに『漱石の思い出』を出しているけれど口述筆記である。漱石の時代の作家は暗黙のうちに教養のスタンダードだった。良くも悪くも、今、作家は文化人よりも芸人に近いし、何ならそうあることを求められている。『ラ・メゾン 小説家と娼婦』の作家なんて小説のために娼婦になってる。
 すべてがフラット化する時代の法廷劇が、たぶん初めて描かれたんだと思う。もっと面白くしようと思えば、夫婦ともども作家なわけだから、谷崎潤一郎の『鍵』みたいに、夫婦それぞれの視点から、それこそ『羅生門』スタイルに描くこともできたかもしれないが、それを今やるよりは、このフラットな感じが良かったのではないか。
 この辺からネタバレになる。読んでもそんなに鑑賞に影響ないかもしれないけど、これから観る予定の人は読まないほうがいいかも。
 旦那のスマホに残されてる夫婦げんかの音声が殺人の証拠にされかけるのも今風で面白かった。ありふれた夫婦げんかにすぎないのに、それが音声として記録されかねない時代でもある。殺すの殺せのの言い争いも消え去っちゃえば何でもないのに、記録されると何か意味を持ってしまう。ニュートラルな主人公の破綻をところどころで見せるのもうまいと思う。
 物語が進むにつれて、事件の真相よりも、死んだ旦那の性格とか、夫婦のありようとかがむしろ明らかになってくる。法廷劇に見せつつ、実はホームドラマで、最後は1人息子の証言で決着がつくけど、それで明らかになるダンナのダメさ加減に悲哀がある。冒頭の大音量の音楽が、そこでは顔を見せなかったダンナの心情みたいなものを、最後には浮かび上がらせる。
 インタビューを受けている奥さんの背後で、だんだんデカい音量の音楽がかかって話ができなくなるって、そんな始まり方が発明かもしれなかった。ふつうなら「ちょっと音楽止めてくれよ」って言いにいけばいい。でも、そうせずにしばらく我慢して結局インタビューの方をやめてしまう。その時点で殺人じゃありえなかった。
 最初は夫婦で口裏を合わせてインタビュアーを追い払ってるのかと思った。インタビューが煩わしいならありえるから。でも、まさか、奥さんのインタビューを妨害してるとは。そりゃダンナは悲しすぎる。自殺もしたくなるだろう。
 蛇足ながら、76回のカンヌのパルムドールです。

gaga.ne.jp


www.youtube.com