映画も公開されている。なんともそそられるタイトルだけれども、どうもアメリカのベストセラー小説の映画化だそうで、となると、映画が良いにせよ、たぶん原作は超えないだろうと思ったので、小説を読んでみた。
日本人が読んでも面白いけれど、これがアメリカで大ヒットする理由もわかる気がした。
舞台は近過去、だいたい1950から1970くらい。なんだけれども、主人公の少女(湿地の少女と呼ばれていた)は、ホワイト・トラッシュと呼ばれる白人貧困層の少女で、これはその頃よりも現代のアメリカでこそ切実な問題だと思う。
それに加えて、両親に去られた少女がサバイブしてゆく湿地やラグーンが、そのあと急激に環境破壊にさらされることになるアメリカの原風景のひとつであること。
そして、彼女のぎりぎりの生活を陰ながら支えるのが、カラード・タウン(という場所は流石に今はないのだろうと思うが)の黒人夫婦であり、彼らに加えられる日常的な差別もまた、アメリカの原風景とからみあって、痛みとしてそこにあり続けていること。
そしてもうひとつは、にもかかわらず、一方では、何とか彼女を支えようとする、コミュニティの健全さが描かれていること。コミュニティが社会正義の回復の可能性に希望を持たせてくれることだろう。
つまり、拡大するばかりの貧困と分断のルーツを目の当たりにさせられながらも、アメリカ社会のコミュニティの感覚を想起させてくれる。天秤の片方の皿に苦すぎる現実、片方の皿にはその同じ重さの希望。どちらかがどちらかに打ち克つわけではない状況で提示しているのがうまい。
だから、最後のどんでん返しは、その天秤のちょうど支点として、なんとも言えない余韻を残す。単に驚かしてやろうという結末ではない。
結末を知っても、その支点の部分は、善悪のどちらにも傾かないのは、そこまでの描き方が周到で丁寧だからだ。
最後の一点がなくても、よくできた法廷劇だったかも知れないが、その一点があるからこそ、この小説世界が、倫理の対立を内包する包括的な世界として独立する。
少女の性的な成長の官能的な描写も素晴らしい。作者は70代の女性生物学者で、しかもこれが初の小説作品だと聞いて驚かざるえない。ラグーンに生息する生物の描写は彼女の専門な訳だけれど、ほとんどそれと同じ正確さで主人公を始め、人間たちを描いている。
一方にホタルやカモメのイキイキとした描写があるからこそ、主人公の行動に決定的な説得力が生まれている。
過去と現在を行き来する章立ての仕方も見事だと思う。映画がこれをどう描いたかわからないが、この小説の構造を超えるのは相当に難しいだろうと思う。