「BRUTUS」の三谷幸喜特集号

雑誌「BRUTUS」の三谷幸喜特集号を手に入れた。
ほぼ日の記事が面白かったので、立川談志との対談も読んでみたくなった。
糸井重里との対談もこの雑誌にほぼ全部載っているみたいだが、ただ、映画を見た人のためだけの番外編はウエブにしかない。こういうのがウエブの正しい楽しみ方でしょう。
で、今回どうして淡白な私として珍しく、しつこく三谷幸喜を追跡してみたのかというと、今度の最新作、面白くてすごく楽しかったのだけれど、ひとつだけ。
気になっているのは、編集はあれがベストだったのかなぁ、というもやもやなのである。
というのは、前作の『the有頂天ホテル』は、グランドホテル形式で、観客の時間と映画の時間は一致して経過していた。(なんでも10分押してしまって、完成後CGで最初の時計の針を修正したらしい)
他にも『ラジオの時間』は、一つのラジオドラマの放送開始から終了までという時間のくくりがあったし、三谷監督ではないけれど、『12人のやさしい日本人』では、陪審員の会議が終わるまでという制約があった。つまり、これらの映画は空間は映画だけれど、時間は舞台と同じなわけだ。
今回の映画にはその制約がない。だから自由に時間を切り貼りできるわけなので、逆にエピソードの量の塩梅が難しかったはずなのだ。
立川談志は「マトリョーシカはすごく面白かったのに、『新撰組』なんてあれはなんだ?」といっている。もしかしたら、それはシーンの出し入れの仕方やシーンの切りすて方に課題があるのではないか。それは、もしかしたら、(全部「もししたら」で申し訳ないが、)舞台ではなく小説的な感覚が求められる部分なのかもしれない。
観客としては『the有頂天ホテル』の方が見やすかったとは思う。見やすい方がいいのかどうかは分からないが、ただ、私が引っかかったのは、三谷自身が言っている

あの脚本を書いてるときは、 「これを舞台でやったら  100パーセント笑いがとれる」 っていう自信があったんです。 で、目の前でやってもやっぱりおもしろかった。 そこで思ったのは、これがフィルムになったときに ちょっとでもおもしろさが減ってたら もう僕は映画をやる意味がないと思ったんです。

というまさにそのことだけである。
ところで、この番外編を読むと本編(?)のインタビューで糸井重里が「理屈じゃない部分」といっていたのが、具体的にどこをさしているのか分かる。つまり、必要以上に説明的であることはないという意味だったかと思われる。
あの映画館のシーンは印象的だ。ああいうところにもちろん説明は要らない。
三谷

僕は映画の職人さんたちが好きですけども、 いちばんの職人は、 じつは俳優さんだなって感じがすごくします。 で、佐藤浩市という役者は やっぱりすごい職人役者なんですよね。

糸井

すごいですね。 あれをもうちょっとだけわざとらしく、 ちょっとアホなアクション俳優にするんだったら 簡単にできちゃうんだと思うんだけど、 やっぱりあの男の中に「泣ける」という部分を 残してるじゃないですか。 それができる人はそんなにいないですよねえ。

三谷

いや、本当にそう思いましたね。

下手な役者を演じる役者って、頭の中はどうなってるんだろうと思ってしまった。