会社ごっこ

knockeye2008-07-04

勤め人にとってはボーナスのシーズン。
ついこないだまでフリーターだった私は、とっくの昔に生活設計など潰え去ってしまっているので、この出所不明な収入をどう捉えていいのか実感が湧かない。
大体、BONUSを定期的に支給することじたい、言義的にいっておかしい気がする。
そういうわけで、なんとなく会社ごっこのような気分がする。くれる方もそのつもりでいてくれれば話が早いが、案外、マジみたいだから迷惑する。私の感触としては、会社ごっこにマジであることと、仕事にマジであることとは、かなり違う。
会社ごっこと仕事、どちらが実質的なのか、難しいところだが、この「ごっこ」に、私はあまり夢中になれない。職場では仕事だけしてとっとと帰りたいと思っている。
この三日ほど、ちょっと一息ついている。といっても、日のあるうちに帰れるというだけだが、そうなるとかえって今までの疲れが出るらしく、今朝はうっかり寝過ごしかけてしまった。
帰宅してからもしばらく眠って、夏風邪かなと思いつつ、カレーを食べに外出した。この辺でカレーを食べようとすると、びっくりドンキーでカレーバーグディッシュくらいしかない。
前にも言ったけれど、あの店のBGMは、常時ビートルズ。2008年の現在、エンドレスでビートルズナンバーを聞かされると、これはもしかしたらビートルズじゃないんじゃないか、ラズベリーズじゃないのかと、わが耳を疑う気分になるのであるが、今日はグレアム・グリーンの短編集を読んでいたので、ビートルズを聴きながらも、なるほど、乙なものであった。ジョージ・ハリソンの「You」がかかっていた。
帰りにコンビニでアイスクリームを買い食い。ついでに「SPA!」を買う。鴻上尚史のコラムに須原一秀著『自死という生き方』が紹介されていた。鴻上尚史のこのコラムは、高遠菜穂子さんの事件が起きたときに共感したのを覚えているが、それ以来久しぶりだ。この雑誌は、勝谷誠彦のコラムも面白いし、佐藤優も執筆しているのに、どういうわけかあまり読まない。すこし執筆陣の年齢が自分に近すぎるのか知れないし、それに、「ごっこ」の趣味がちがうのかも知れない。すこし政治的すぎるか。
コラムの内容についてだが、ときどき、死が眠りにたとえられるのは、それが他人に属しているからだ。家族や社会の中に位置づけられるときにだけ、死を眠りにたとえることが出来る。少なくとも私は、死を眠りのようなものだとは思っていない。
人は生活設計というとき、もちろん自己の死までを考えているだろう。だが、それは家族と社会にとっての死にすぎない。個人としての自己の死を設計できる人間なんているはずがない。だとすれば、生活を設計できる人間もいない。それも、生活設計「ごっこ」なのだろう。