鴻上尚史のほがらか人生相談 息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋
- 作者: 鴻上尚史
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2019/09/20
- メディア: 単行本
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ハフィントンポストに鴻上尚史のインタビュー記事があった。
まぁ、半分くらいは本の宣伝なんだけど、その中で面白いなと思ったのは
インターネットの最大の罪は、「おバカを見える化」したこと。多様性に反対するような人たちは昔から一定数存在していたけど、いまのように可視化されていなかった。でも、ネットによってその姿や声が見えるようになったことで、彼らは連帯して力を持ってしまうようになったんです。
という部分。
その通りだと思うけれど、その場合の「おバカ」とは何だろうか?。学歴が低いことを指していないことは、いちいち断ってはいないが、それは当然のことと思う。
「SNSで連帯するおバカ」といわれて、高学歴でお金持ちで社会的地位の高い人たちの顔がずらりと思い浮かぶから。
すると、この場合「おバカ」といわれている人に欠落しているのは何なんだろうか?。お金も地位も学歴も、みんながほしいものなはずだし、それがあるからといって非難されることはないのだし、だとしたら、それを持っているのに「おバカ」呼ばわりされてしまう人たちに欠落しているものは何なんだろうかと考えると、それは、それこそが「教養」と呼ばれる、何かしら正体不明のものなのだろうと推測できる。
「教養」という言葉を口にすると、フンと鼻を鳴らしたくなる人たちの気分も理解できる。教養の否定はおそらく戦後に始まったものだ。二つの世界大戦を通じて、教養が無力であったことから、それは打ち捨てられ、アメリカ的なプラグマティズムが世界を席巻したかのようだった。
特に、日本の場合は、その70年ほど前に、一度、明治維新という近代革命があり、それ以前の東洋的な教養、木村蒹葭堂や浦上玉堂といった人たちがつながっていた文人のネットワークが壊滅してしまうという経験があり、その代わりに、幅を利かせていたはずの西洋の教養も、またふたたびメッキがはげ落ちたとなれば、「教養」という言葉自体に侮蔑の目を向けたくなるのもよくわかる。
しかし、そういったアメリカ的な侮蔑の最先端にトランプ大統領がいて、安倍首相の野次が加わるとなれば、その時代ももう終焉をむかえつつあると思わざるえない。
先の、鴻上尚史のインタビューと同じ時期に、これも本のレビューなんだけれども、佐藤優が連載している週刊現代の書評で舛添要一の『ヒトラーの正体』をとりあげているのを目にした。
- 作者: 舛添要一
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2019/08/01
- メディア: 新書
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いまさらヒトラーなのはなぜかと言いたくなるのもわかるが、舛添要一は、ナチズムの要素の中でも特に、「ニヒリズムの革命」の要素に着目していて、
ニヒリズムというと「虚無主義」などと訳される難解な哲学用語で、・・・よく分からないなという感じが先立ちます。・・・私は、ナチズムとの関連では、ニヒリズムとは「破れかぶれ」、「やけっぱち」、「場当たり的」と訳したら分かりやすいのではないかと思います。
という、この「ニヒリズム」の翻訳が、「実に見事だ」と佐藤優は書いている。つまり、今、舛添要一があえてこの本を書いたのは、ナチズムを動かしたのと同じような、ニヒリズムの革命が、日本で、あるいは世界全体でも、起こりうる状況になりつつあるという危機感からだろうと。
それで、ふと気が付いてみると、鴻上尚史のいう「おバカ」と舛添要一のいう「ニヒリズム」はほとんど同じ意味だと思えてくる。
ニヒリズムをアナーキーと読み替えてみると、ここで提議されている問題は「教養か無秩序か」という、マシュー・アーノルドが19世紀末に提議していた問いだと気が付いておかしくなる。
このサイトによると、マシュー・アーノルドはビューリタニズムを批判していた。ビューリタニズムの信者たちがイギリスを逃れてアメリカに渡ったピルグリムファーザーたちだから、「アメリカを再び偉大に」といっている人たちを、マシュー・アーノルドが批判しているように見えてしまう。
150年以上たって、その言説が響いてくるようなのが面白いと思った。
そういえば、今週の週刊文春の福岡伸一の連載も、何のために勉強するのかといえば、それは「自由になるためだ」と書いていた。お金持ちになるためとか、人の上に立つためとかではなく、自由になるために勉強するのだという考え方は、教養主義だということができるだろう。
このところ、わたしがサブスクライブしているコラムの人たちが、突然、一斉に教養主義をとなえだしたようで面白いのだった。
まあ、右派vs.左派という対立項がまやかしだったということが、骨身に染みるこのころであるので、だとすれば、現実的な対立項は何なのかと考えてみた時、教養vs.ニヒリズムなんだという結論に、色んな人が同時に達したと見えるのが非常に面白いと思った。
教養主義の対義語は教条主義だといっていいだろうか。今年のテレビ界最大のヒット番組は「ポツンと一軒家」だそうだが、所さんが世田谷ベースで裏話をしていたのによると、あの番組にさえ、「村人のクルマのテールランプが切れてます」と、クレームの電話をかけてくる人がいるそうなのである。
正しい。確かに。テールランプが切れてる車に乗ってはいけない。だけど、そんなクレームの電話をかける奴がいる世の中だからこそ、「ポツンと一軒家」がヒットしたわけである。
狭量な正義を振り回す教条主義者に対して、有効な対抗手段は、結局、やわらかな教養主義ではないのかという考え方は、検討してみる価値があると思う。
ちなみに、舛添要一は、小泉政権時代にインフレターゲットを提言した数少ない人の一人で、あのとき、金融政策を転換できていればなあと悔しく思うことがある。