コロー展

knockeye2008-07-05

上野国立西洋美術館にコロー展を見に行った。
なにしろジャン・バティスト・カミーユ・コローである。西洋美術史に屹立するビッグネームであるから、日曜日ではなく土曜日の、それも開場に間に合うようにこころがけた。
JRで行けば簡単だったのだけれど、横浜で乗り換えるのがめんどくさいので、地下鉄根津駅を降り、不忍の池の方から公園に入った。少し歩く分、遠回りになるのは織り込み済みだったが、地下鉄で意外に時間をくったな、と思いつつ上野公園に入ったので、延々と続く長蛇の列を見たときは青ざめた。
ほとんど上野駅側の入り口から続いているその列は、上野の森美術館で開催されている「井上雄彦 最後のマンガ展」に続くものだったのである。個人的な体験では、朝の十時からこんな行列を見たことはない。場所柄、全国から人を集めていると思われる。先頭の人は何時から並んでいるのだろう。
「ただいま19時から20時の整理券をお配りしていまーす」
という係員の声を背にして、私はとなりの国立西洋美術館に向かった。朝から暑い日だったが、かかなくてもいい汗をかいてしまった。しかし、最先端の集客力は見せ付けられた。

絵をたくさん観ることは、それなりによいことで、「印象派以前は全部ダメ」みたいな幼稚な固定観念は自然に消えていく。
美術史では、ターナーやコローは印象派のさきがけと位置づけられるかしれないが、実物の絵を前にして、そんなやせ細った感想しか持たない人はまずいない。
すぐれた画家はだれも、言葉に置き換えられない色を持っている。コローの繊細な色を見つめていると、舌の奥の方にかすかな味覚が湧いてくる。視覚神経が迷走するのだろうか。
印象派とコローの大きな違いは、空の色だろう。コローはプルシァンブルーの晴れ渡った空よりも、うす曇の淡い空色を好んだようだ。そして、コローの代名詞でもある銀灰色の森。
写真の用語で言えば、ありえないほどのワイドレンジである。おそらく肉眼でみても、ここまで諧調が豊かには見えないはずだ。これほど豊かな色調を表現できる画家はそういない。「傾いだ木」と「モルトフォンテーヌの想い出」は、まさに私が見たかったコローである。
今回の展覧会では、風景だけでなく肖像画も多数展示されていた。白眉は「真珠の女」と題された絵で、コローはこの絵を生涯手許に置き、けして手放そうとしなかったそうだ。「真珠の女」と題されたのは、額にたれかかる草の冠の葉の一枚が、艶やかな画肌のために光を反射し、真珠に見えたためだそうだ。この展覧会でもその輝きは健在で、画肌は今描きあげたばかりのように艶めいている。
「ヴイル・ダブレーの四阿」には、コローの両親、姉、義兄が点景として描き込まれている。父親が別荘を購入したヴイル・ダブレーはコローの生涯にわたる重要な画題になった。
「真珠の女」はもちろん美しいが、個人的に気に入った肖像画は「もの思い」と題されたうつむく少女の絵と、長年、コローのモデルをつとめたエマ・ドビニーがモデルであろうといわれる、画家最晩年の肖像画「青い服の婦人」の少し肉がつき始めた右腕である。
コローの絵にはコローが顕れている。技術の繊細さとオリジナリティーにもかかわらず、この開けっぴろげな正直さは、なにかしら敬愛の念をいだたかせずにおかない。