グーグーだって猫である

knockeye2008-09-09

野田知佑の紀行文のどこかに、ユーコンをカヌーで下っている時出逢ったイギリス人かアメリカ人かが、夏目漱石の「こころ」の英訳版を読んでいたと書いてあった。
「こころ」は夏目漱石の、多分、最高傑作だろうが、多くの名作がそうであるように、魅力的でありながら謎めいている。
実は、「K」は「先生」のドッペルゲンガーではなかったのかというのが私なりの仮説である。
日常、人間は自分と他人は違うと確信して生きているが、その考えはけっこう便宜的で、自己と他者の領域は、案外あやふやなのかもしれない。
グーグーだって猫である」を観てきた。小泉今日子の存在感は、いまやゆるぎない。
加瀬亮のサンタクロース姿。途中から忍び込まされたテーマに気づくと、いつのまにか映画の世界「吉祥寺」に入り込んでいた。
「ぐるりのこと。」のリリー・フランキーもそうだけれど、映画で素人を起用するときには、やはりそれなりの意味があると心しておかなければならない。今回はマーティン・フリードマンがそうだった。やられた。
小泉今日子演じる漫画家が、富山出身という設定なので、懐かしの富山弁に触れることが出来た。
富山はかつて大都会だったのである。私の中で東京と富山はミラーイメージをなしている。
自己と他者、過去と未来、時間の境界がふと曖昧になる。映画を見ているつもりで、見られているような気がしてくる。