グーグーだって猫である その2

ちょっと驚いたのだけれど、映画「グーグーだって猫である」で、小泉今日子演ずる漫画家「麻子さん」が富山出身という設定は虚構だった。私はてっきり原作者大島弓子が富山出身なのだと思ったけれど、違うのだそうだ。
ストーリーを引っ張っていく役どころの、上野樹里演ずるアシスタントは回想シーンで関西弁を話している。そして、舞台は単に東京ではなく「吉祥寺」。この町についての詳しい紹介が映画の冒頭におかれている。
吉祥寺はともかく、富山と関西にかかわりのある私は、当然この二つの土地に、ある寓意を感じていた。しかし、それは個人的な感慨だと思っていた。
主人公の出身地が虚構であり、アシスタントの出身地ももちろん虚構のわけだから、この三つの土地は映画的な意味を持たされていると考えるべきなのだろう。
映画の息づいている世界、吉祥寺の説明は本編に譲るとして、私は長年お世話になった富山について、知っていることを羅列しておいてもいいだろう。
前田家の御城下加賀百万石というと誰もが石川県を思うだろう。かつて富山県は石川県の一部だった。そう思って、本州の折れ曲がったあたり、能登半島付近の地図を眺めてみると、富山県の小ささはなんとも奇異である。新潟、長野、岐阜、周辺の県はみな大きい。面積の小ささは、近世を通じて海運の中心地だった富山が、辺り一帯の政治経済の中心地であったことを意味していると思う。聞きかじった話によれば、富山は敢えて石川から分離独立したらしい。
明治になり、鉄道が敷かれ始めると、富裕層は東京に移り住んだ。栄華の名残りは、家道楽といわれる立派な町並みと、各地に残る祭の豪華さに垣間見られるのみだろうか。しかし、今でも県民は比較的裕福だ。
自然が豊かで海産物が豊富。また土地も肥沃。そうでなければ、年の三分の一を低く厚い雲に閉ざされる土地に誰が住み付くだろうか。
北陸という言葉にだまされてしまうが、夏はフェーン現象で恐ろしく暑い。そして、冬は厚い雲と雪のため思うほど寒くない。夏は涼しく、抜けるような冬空のもと凍てかえる信州とは好対照を成している。
男女差別のない真宗が盛んなためか、女性の権利意識が高く、女性の就業率も高い。大正時代の米騒動は富山から発した。「越中女一揆」と報道されたそうだ。
晴れた日に山越の阿弥陀仏を思わせる立山は、古くから山岳信仰の対象になり、そこに死者の国があると思われてきた。立山の町は全国から参拝者を集め、宿坊集落でにぎわった。

ときたまに晴れ渡ると、雨晴の海岸から、海越しに立山を望むことが出来る。あの山に黄泉の国があるという信仰は、今の私たちの感覚にも訴えてくるものがある。
冬の荒れた日本海はそれだけで一見の価値がある。物見遊山に早月川の河口に出かけてみるといい。大人の頭ほどもある石が波で放り上げられている。耳を澄ますまでもなく、波打ち際の海の底から、岩が擦れあうごろごろという音が絶えず聞こえている。

私が関東に移ることに決まったとき、当時の上司は「表に行く」という表現を使った。今では使われることがないと思うが、「裏日本」という言葉は逆らいがたいイメージを持っている。ちょっとした歴史のいたずらで、そちら側が「表」であった可能性もあるのだ。前田と徳川、船と鉄道、アメリカとロシア、それが大きな違いだったのかどうか。
その辺はわからないけれど、ともかくこうして私の中で、富山は東京のミラーイメージになる。村上春樹の小説にたとえると、富山が世界の終わりで、東京はハードボイルドワンダーランドなのだ。これは、私が富山に住み始めたとき、部屋の窓から町を見下ろして感じたこと、そのままである。