僕たちの好きだった革命

「僕たちの好きだった革命」という鴻上尚史の舞台が微妙に評判みたい。主演の中村雅俊の息子がタイミングよく大麻で問題を起こしたりしたが、それとは関係なく、きっと面白いとは思っているのだけれど、ちょっと、うーんと思う部分もある。
植物人間になっていた全共闘世代の高校生が、現代に突然覚醒して高校に復学するという設定。面白そうでしょ。
ただ、鴻上尚史とほぼ同年代にもかかわらず、私は全然好きじゃなかったのだ、あの時代が。むしろ、ひとつ前の世代のあの騒ぎを、完全に軽べつしていたといっていい。「何やってるつもりだこいつら」と思っていた。
むしろ親近感を覚えるのは、鴻上尚史のSPA!の連載コラムにあった、その全国公演とあわせて行なわれたトークショーでの上野千鶴子の発言の方だ。それは私が当時、「おんなこども」の「こども」だったからでもあるか知れない。
「上野さんは京都でヘルメットをかぶってわいわいやっていた時期があっただけに、あの時代に対する見方はとてもシビアです。」
しかし、一歩引いて見たときには、
「だめだ、こいつら」
というのが、正しい感想ではないだろうか。私はどんな意味でも、全共闘の世代に、幻想を抱いたりしない。
その幻滅がベースにあった上での苦笑いがこの舞台の味わいであれば、もしかしたら面白いかもしれないけど、うーんと思っている。
ひとことでくくってしまうとやはり「幼稚」だよね。全共闘の世代も、その前のバンザイ連中も。
日本には成熟のモデルがない。誰の言葉だったか忘れたけど、確かにそうだなと思う。この人は大人だなとか、それでこそ大人だとか、そういう規範が存在しないのだ。
右だ左だといって騒いでいる連中にひっくるめて感じる幼稚さは、大人にはぐれた子供たちの泣き言なのかもしれない。
ネオテニー幼形成熟)」ていう視点はそういう意味で刺激的なのかもしれない。
あの幼稚さのまま、成熟のモデルがないまま、でも、大人になったとしたら、こういう芸術表現が生まれてきたという視点。
明治直後の日本画と洋画が、いわば、右翼と左翼である。対立しているようでいて、実はどちらも西洋コンプレックスの表出に過ぎない。
そういうコンプレックスが消え去ったあとに生まれてきたものは、ネオテニーたらざるをえなかったというのは、説得力がある考え方だ。
前の世代が他者の成熟を真似て幼稚なままなのに対して(「近代の超克」とかいってね)、新しい世代は幼稚なままでいながら成熟しているのだ。