ボローニャ紀行

ボローニャ紀行

ボローニャ紀行

乱読には乱読の功徳というものもたしかにあって、乱読家の書棚の中で奇妙な出会い方をする本がある。
井上ひさしの「ボローニャ紀行」、一年半も前に出版されたこの本を、なんでまた今になって読んでみようという気になったのか、自分でもよく分からないのだけれど、読んでみて驚いたのは、村上龍の「五分後の世界」との共鳴関係である。
ボローニャ紀行」を読んだ人には「五分後の世界」を、「五分後の世界」を読んだ人には「ボローニャ紀行」を読んでみることをオススメしたい。
ダリオ・フォーはまるでワカマツだし、ナチスドイツに対するパルチザンは、まるで、国連軍に対するUG軍兵士だ。
「五分後の世界」は、村上龍キューバに触発されて生まれた物語だったろうが、ボローニャは、日本とおなじく枢軸国の一員だったイタリアの一地方で、しかも、これがいちばん驚くべきことだが、実話なのである。「ボローニャ紀行」は「ガリバー旅行記」ではないのだ。
むしろ、この本を読んだ後では、私たち自身が「ガリバー旅行記」の中で暮らしているように思えてくる。あの麻生太郎という人物は、実は、ヤフー国かどこかの王様だったのではなかろうかと。
もし、「五分後の世界」の熱心な読者なら、ほかにも共鳴するところを探し当てることができるだろう。
村上龍柄谷行人の対談で、70年代以降の日本は、精神的な鎖国状態に入っているのではないかと指摘されていた。
それは、他者を遇する礼節や敬意、それと表裏一体でもあるだろうが、自己に対する危機感の、圧倒的な希薄さとなってあらわれるが、それがいかに危うい状態であるかが、ボローニャと比較するととてもよくわかる。
たとえば、日本のネット世論は、なぜか半世紀以上時計を巻き戻したような幼稚な国粋主義が幅を利かせている。
日本語という、私たち以外は使わない言語の壁に守られて、日本のインターネット社会は小さな村社会に過ぎない。
考えてみれば、それは大本営発表だけを信じて生きていた、戦前戦中の軍国少年たちの世界とよく似ているのだろう。その世界の中で人気のある政治家が、国際的な批判に耐えうるとは限らない。
以前、カンブリア宮殿での村上龍竹中平蔵対談のなかで、なぜ竹中平蔵が「目の仇に」されているのかと二人で首を傾げていたことがあった。
そのときは、結局「既得権益」だろうという結論になっていたが、私はそうではないと思う。
村上龍竹中平蔵も世界につながっている日本人だ。
昔からそうだが、日本人のある一群は、世界に開かれている日本人を、存在の根源の部分で憎悪する。
それは、思い出してみれば、レオナール・フジタに対するときも同じだった。近親憎悪といってもいいし、単に嫉妬といってもいいが、私はもっと原始的なものを感じて気持ちが悪い。圧倒的に無知で、知性的な根拠のない憎悪だと思う。
朝まで生テレビでの、森永卓郎の絶叫も、同じようなものを感じさせた。
もし、少しだけでも日本を離れた視野にたって、麻生太郎小泉純一郎を比べれば、どちらの仕事に意義を感ずるかはいうまでもないだろう。
どういうわけで麻生太郎の本を買っちゃうお祭りなどにうつつを抜かす気になるのだろうか。私には全くわからない。
もちろん、日本人の全部がそうではない。ほんの一群なのだ。何を根拠にそういうかといえば、たとえば、小沢一郎の公設第一秘書逮捕をめぐる一連の騒ぎで、私もこのブログにいろいろと書いたものだったが、その間、麻生政権の支持率を上げたり下げたりしたのは、ほんの10%ほどの人たちにすぎなかった。
必死に熱弁をふるうまでもなく、私がわかる程度のことは、大概の人もまたわかる。これは、うれしいし、ほっとすることでもあった。
レオナール・フジタも多くの日本人は支持していたし、小泉、竹中の業績も、多くの日本人は認めているのだろう。
しかし、歴史を振り返ると、名無しの一群ともいうべき日本人が汚点を残してきているのも確かなのだ。
アイヌ琉球、南京etc.これらの場所で行なわれた残虐行為は、誰が責任者なのかはっきりわからないという点で共通している。
どの国にもくだらない人間がいるというだけで済ましていいのかどうか、おなじ日本人としてよくわからない。そして不気味である。