安物大国の鎖国の民

最近、浅い時刻に眠って深夜に起きてしまうことが多い。うとうとしながらテレビをザッピングしていると、ハーバード大学の授業が史上初めて公開されたというのをNHKで放送していた。
今まで、非公開にされてきたハーバード大学の授業だが、あまりの人気のために公開されたというのだが、それでは、いままで人気のある授業がなかったのだろうか?
そんなはずはない。もちろん、公開されたからには、意図がある。と、わたしは思う。
授業内容を聞いたかぎりリバタリアニズムに対する批判が主旨だったようである。日本では‘市場原理主義’などと訳されているものらしい。番組の最後にいかにもNHKな人が市場原理主義の批判を上乗せしていた。せっかくフェアな態度で進められていた授業の最後に、こういう解説が必要なのかどうか首をかしげた。
この授業がアメリカで放送される意図はだいたい想像できる。前にも書いたとおり、海の向こうアメリカ国では、社会保障を充実させようとするオバマ大統領が‘社会主義者’と非難されている。
週刊文春町山智浩の記事によると、アメリカはイギリスと戦って独立を勝ち取った歴史から、民兵ミリシアというそうだ)として武装する権利が憲法に保障されていて、全米に500を超えるミリシアのグループが存在している。いま、彼らの敵は、イギリスではなく、銃の所持を規制しようとする自国の政府へと変わっている。
また、ミリシアのほとんどは低所得の白人で、オバマが大統領になってから、その数は三倍に膨れ上がった。
国民皆保険制度を導入しようとしたり、銃の所持を規制しようとすると、国民からいっせいに反発を受ける。
こういう国民性の国では、リバタリアニズムの問題点を指摘する、そういう大学の授業などをテレビで流して、側面から援護射撃をしてもらおうというのも納得できる話だ。
それが、この異例のハーバード大学の講義のテレビ公開の裏事情だろうとわたしは考えた。
しかし、さらに考えを進めなければならないのは、どういうわけでこれをNHKが日本で放送しているのか?
この事情は皆さん考えてくださいと言いたいけど、考えるまでもないかな。
以前、村上龍竹中平蔵の対談を聞き書きしておいた。
そのなかで印象的だったのは、なぜ、竹中平蔵が‘市場原理主義者’呼ばわりされているのか、そして、竹中平蔵に対する感情的なバッシングが何なのかと二人で首を傾げていたことである。
ついでなので、もういちど、ここにコピペしておく。
村上龍「マーケットとか市場の話になってくるとですね、竹中さんがおいでなのでアレなんですけど、今、格差がでてしまったとか、あるいは、地方経済が疲弊してしまったっていうのがですね、どうしてあの構造改革のみんなせいになってしまうんですかね。」
竹中平蔵「いえ、わたしも、だからそれを誰か説明してくださいと、ずっと言ってるんですけど、だれも説明しませんね。」
村上龍「でも竹中さんってアレですよ。目の仇にされてるでしょ」
竹中平蔵「いや、そうですそうです。」
村上龍「ただ、竹中さんは、市場原理主義ですか。違いますよね。(笑)」
竹中平蔵「違いますよ(笑)私はよく言うんですけど、私は不良債権の処理をしましたと。あれは政府が介入したんです。」
村上龍「そうですよね。」
竹中平蔵「だから(市場原理主義とは)全く違うことを実はやってるんです。」
村上龍「竹中さんがやったことで一番大きいのは、あの不良債権の徹底的な公的資金の注入ですよね。」
竹中平蔵「はい」
村上龍「あれは市場原理主義とは全く反する行為でしょ」
竹中平蔵「全く違う。どこが市場原理主義なんですかということですよね。」
村上龍「僕ね、地方の土建業者の方が、竹中さんを悪く言うのは分かるんですよ」
竹中平蔵「そうそう」
村上龍「公共事業が減りましたから。ただ、そのなんていうのかな、あのときの小泉竹中改革というのが今の格差の原因とか、あれが市場原理主義とか言われてますけど、僕は小泉竹中改革をすべて支持しているわけではないですし、不完全な部分もたくさんあったと思うんです・・・」
竹中平蔵「いやいや、不完全なことばっかりだと思いますよ。」
村上龍「特に、郵政にしろ道路公団にしろ、ああいったものはもっと突っ込んでやるべきだったと思ってるんですね。ただですね、僕がフェアじゃないと思うのは、今の日本を蔽ってる問題、たとえば格差にしろ、ま、格差問題って竹中さんもおっしゃってる通り貧困問題ですからね、貧困の問題にしろ、あるいは地方の疲弊にしろ、それをですね、スケープゴートを捜すように、小泉竹中の改革のせいだというのはフェアじゃないと思うんです。」
竹中平蔵「ええ。まぁ、私はあんまり気にしてないんですけどね。」
村上龍「そうですか。」
竹中平蔵「まともな人はそんなこといってませんから。変な人ばっかりがそんなこと言ってますから。私はあんまり気にしてないです。」
村上龍「でも、どうしてあんなに毛嫌いされちゃうんですかね。既得権益の問題ですかね。」
竹中平蔵「ああ、そうでしょ。既得権益でしょ。・・・あのう、なんか話を聞きましたけどね、鵞鳥というのはライオンに襲われたらですね、首を地面の中に突っ込んで見ないんだそうですね。今、グローバリゼーションというものすごいライオンが、攻めてきてるわけで、それを首を土の中に突っ込んで見たくないと。でも見ないと負けますよ。」
村上龍「そういうメタファーをやるからまた嫌われちゃうんじゃないですか。(笑)」
竹中平蔵「いやいや、私は別に嫌われてもいいと思ってますよ。誰からも好かれる必要ないですからね。みんなに好かれるために発言したら学者じゃないですよね。」
村上龍「僕はひとつ懸念するのはですね、そうやってただでさえ構造改革、あるいは規制緩和とかいった方向をね、ただでさえサブプライムローンの前から、いろんな人から批判があったときに、これだけ大きな金融危機、金融不安が起きた時に、『ほら見ろ』っていう人がいるんですよ。」
竹中平蔵「ええ、そうです。」
村上龍「『市場は間違うじゃないか。だからやっぱり規制は必要だ』っていって、なんかその、ただでさえ止まりがちだったその方向性がですね、さらに閉ざされるような気がするんですけれど。」
竹中平蔵「いや、私もそのように思います。まあしかし、そこはほんとうにですね、今、各国が叡知を競ってるんですよね。あの、そういう風に、間違った判断を国民全体がもししたならば、やっぱりその国の経済は沈みます。」
村上龍「危ういですよね」
竹中平蔵「危ういです。非常に危ういと思います。」

この対談は2008年の冬のもので、このときの村上龍竹中平蔵の二人の出した一応の結論は、おそらく既得権益のサイドの人間が、小泉構造改革バッシングの主体なのだろうということだった。
しかし、二年後の今になってみると、どうやらそうではなかったらしいということが分かってきたと思う。
長く続いた高度成長社会は、アメリカの低所得の白人優位主義者を、ちょうど鏡に写したような、不気味な精神構造の日本人を育ててきたらしい。
折にふれて間欠泉のように噴出す彼らの感情的な呪詛は、単なる損得勘定とはとても思えないのだ。
理性的に考えれば、小泉純一郎竹中平蔵推し進めた構造改革に対する批判は、上に村上龍が述べているように、もっと徹底してやるべきで不十分だったというものになるのが当然だと思う。また、そういう批判は、小泉政権当時からあったものだ。
それがその後、‘格差社会’だ、‘市場原理主義‘だと、ほとんど根拠に乏しい批判が‘感情的’にうずまいたことに、この国の暗黒を見たとわたしは思っている。
多様な世界や理想の社会を見ることを忘れて、となりの誰かと自分を見比べて足の引っ張り合いをしている。ちょっと突出した誰かがいると寄ってたかっていじめて集団主義の確認をしている。
「フツーの仕事がしたい」とか「年収300万円で幸せ」とか、いかにも謙虚なように聞こえるが、仕事を内容でなく収入で計る態度は、仕事の公共性への意識の欠如を露呈しているにすぎない。300万か3億かは関係ない。また、当然の帰結として、労働者としての権利意識も低い。
週刊現代堺屋太一が寄稿している「安物大国ニッポンの転落」のなかにこんな一節があった。
「かつて日本には『標準家庭』という言葉がありました。高校や大学を卒業したら、終身雇用の会社に勤める。ある程度の蓄えができたら結婚をし、子供を二人作って郊外に家を建てる。これが『標準』だと、役人が家庭を規格化し、人生の順序まで決めたわけです。」
おそらく、この期に及んでまだ、‘高度成長期’の意識を捨てきれない人たちの多くは、この「標準家庭」をあるべき姿として信じているのだろう。そういう人たちの言う「フツーの仕事」あるいは「フツーの生き方」とは、つまり、高度成長期に役人が押し付けたものにすぎないのだ。
時代は変わる。それは変わるのが当たり前なので、変わるからって言って誰かに文句をつけても仕方ない。ましてや、変化に対応して社会を変革していこうとする動きに、感情的な呪詛を投げかけて何になるのだろうか。
わたしは、しかし、その種の‘鎖国の民’はそんなに多数派ではないと思っている。麻生太郎の支持率は10%程度まで落ちたし、改革に逆行する姿勢を鮮明にした鳩山内閣の支持率ももう30%を切りそうである。
NHKが件のハーバード大学の講義を放送したのは、官僚組織の一員として、改革を求める国民の意識に冷や水を浴びせようとしているのだろう。オバマ社会主義者と非難するアメリカと、竹中平蔵市場原理主義者と非難する日本とでは、その番組の効果はまったくちがうものになるはずだからである。
ところで、この市場原理主義という翻訳語は、日本の翻訳文化を考える上でもよいサンプルになるだろう。こういう言葉を役人はうまく利用する。たとえば、「オーバーワーク」を「働きすぎ」と訳すとする。
「アメリカ人は日本人をオーバーワークだといっている」
というのと
「アメリカ人は日本人を働きすぎだといっている」
というのではちょっとニュアンスが変わる。なかなか巧妙だが、しかし、小手先のことだ。
上の村上龍の言葉の中にもあったが、「市場は間違うかもしれない」なんていうこと自体がおかしい。そんなものに正邪の価値を混入すること自体がおかしい。「市場は間違うかもしれない」と言うともっともらしいが、「青果市場はまちがうかもしれない」と具体的に言ってみると、それがいかにへんてこりんかが分かるはずだ。市場は市場にすぎず、それ以上でもそれ以下でもない。
堺屋太一の寄稿の中にはこんな文章もあった。
「去年、11月、わたしが上海のジーパンを作っている縫製工場を見学したときのことです。工場側の説明に私は衝撃を受けました。
『手前の製品は日本向けで、卸値が20元(約280円)のジーパンです。真ん中は、中国向けで40元。向こうが、アメリカ向けで100元です。20元のジーパンを買うのは日本人くらいしかいない。中国人はこんな安物を買いません。見てください。日本向けのジーパンはミシンの目をこのぐらい飛ばして縫うんです。』
並べて見せられると、品質の差は素人目にも歴然。そのジーパンが日本では800円程度で売られ、抵抗感もなく受け入れられているのです。」
20元のジーパンをはく生活が年収300万円の幸せなのだろう。ファッションにはその人の社会意識が確かに表れるのだと思う。
奇しくも、日本の国際的地位が年々低下していく元凶を、堺屋太一は、「嫉妬の精神風土」だと書いている。
オリンピック選手が制服を着崩している。戦士の装いとしてカッコいいじゃないか。何の問題があるのか。それを当のオリンピック協会が公衆の前に引きずり出して謝罪会見をやらせる。こんなことが他の国で起こりうるだろうか。
イラクでボランティアをしている女性がゲリラの人質になる。その人が解放され帰国する空港に押し寄せて「自業自得」とか「ヌルポ」とか書いたプラカードを掲げてせせら笑う。
日本人全体がお互いの足を引っ張り合って泥沼にずぶずぶと沈んでいっている。
町山智浩の記事には数多のミリシアのひとつ、フータリーと名乗るミリシアが警官を襲撃する準備をしていたとして逮捕されたと書いている。「クリスチャンの権利を侵す政府の犬どもを処刑する」思想をもつキリスト教原理主義ミリシアだそうだ。「フータリー」とは彼らの作った独自の言語で「キリストの戦士」という意味なのだそうだ。
人は学びから逃れていけば、際限なく幼稚になることができる。
記事に掲載されている首謀者の顔写真に、しばらく見入ってしまった。もしかしたらこの写真は、未来の鏡が写しているわたしたちの顔なのかもしれない。