柳田国男・丸山真男論

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

この二週間ほどは確かに疲れたな。
上司とのつかみ合いは突発事故だとしても、十一時半とか九時半までサービス残業していると、俺はいったい何をやっているのだろうと思えてくる。
こうしてブログに書くと、ただのアホだな。
この前の坂本龍一との対談『音楽機械論』が面白かったので、今まで手を出していなかった吉本隆明を読んでみた。
丸山真男はあまり知らないけれど、柳田国男は一時期ずいぶん読んだ。
柳田国男論は、面白かったのだけれど、これは柳田国男論なのだろうかと、ふと疑問に思った。
わたしが今回、吉本隆明さん、に聞いてみたかったのは、つまり、丸山真男のことなのだった。
わたしは丸山真男については、たぶん新書一冊くらいしか読んだ記憶がないと思う。特に強い印象も残っていなかったが、このごろ頭の片隅に引っかかるようになってきたのは、高遠菜穂子さんの事件のときの「自己責任」騒動のてん末以来だ。
あのとき、日本の大衆というやつが、すっごく気持ち悪くなっちゃったのである。
イラクで誰かが人質になりました、とする。わたしならどう思うか。事実、そのときわたしはどう思ったかというと、「へえ・・・」と思っただけ。というのも、イラクも人質も人質家族もわたしには全然関係ないし。
ところが、わたしと同じように全然関係ないはずの連中がくり広げた人質バッシングは、わたしにはほとんど人間わざとも思えなかった。
前にも何度か引用しているが、映画「ぐるりのこと。」の橋口亮輔監督は、

 その頃、イラク戦争で日本人が人質になる事件がありました。救出された方たちが帰国された時、空港の野次馬の中に“自業自得”と書かれたプラカードを持ち笑っている若い女の姿を見て、日本人はいつからこうなったんだろうとショックを受けたんです。

と語っている。
しかし、いろいろなことを思い返してみると、日本の近代史の節目節目で、この手の恥さらしを日本の大衆はつねに(もれなくとでもいおうか)、演じてきたと思い当たる。
こいつらはなんか変だ、と思ったとき、わたしはたしかに自分を日本の大衆と分離して認識していた。それに、そう認識せざるえない。どう考えても、自分の中には、あの皆様と共有するものがない。
しかし、ほんとにそうなのか。あれはいったいなんだったのか。そのへんのことが頭の片隅に引っかかっている。
今回の読書でその答えにたどり着けはしなかったのだけれど、以下のような文章が気にかかった。

 「残虐」や「蛮行」は、それ自体が「生活史」に属している。あるいは、「生活史」のみに属しているといってもいい。犬が犬をかみ殺しても、わたしたちはそれを蛮行とはよばない。戦場で弾丸が敵国人を殺し、また、殺されたとき、その残虐は「戦争」そのものの本質に帰せられる。銃剣で非戦闘員をつき殺したとき残虐とよばれる。
(略)
 したがって、「残虐」に日本的な様式があり、「蛮行」に日本的な様式があり、励起された情況でそれが触発されるということが問題なのだ。もしも、この様式が「一般兵隊」だけにあり、丸山真男のような知識人に、あるいは一般に「生活史」としての知識人に、ないものだとかんがえるならば、単なる錯覚にすぎない。

 内心での戦争反対と、外からの戦争強制とを、ほとんど完璧な二重操作として使いわけねばならなかったすべてのリベラルな、そして、ある意味では特殊な、戦争期の知識人の典型であった丸山真男にとって、日本の大衆は、この二重操作をぎりぎりまでじぶんに迫った「下手人」としてうつった。そして、これをあやつったのは国家権力であったが、手先となった直接の当体は、大衆そのものであるという認識がふかく戦争期に刻印された。この潜在的なモチーフは、戦後の丸山のすべての業績に、ふかく浸透しているとおもえる。

また、一方ではこうも書いている。

・・・容易く「大衆」だなどといってもらいたくないという丸山の内心のモチーフは、とくに日本のばあい、尊重しなければならない。よりどころを「大衆」にもとめるほかに、自足することができなかった戦後知識人たちは、便所の落書までを動員して、戦争期の「大衆」の抵抗の跡に天眼鏡をあて、自らの根拠をうらづけねばならなかった。これにくらべれば、「大衆」が天皇制の究極の価値につながることによって「皇軍」兵士としてどんな残虐もゆるされた、という丸山の指摘のほうが、生産的な志向をもつものであったということができる。

それでは、日本の大衆とは何なのかということについては、おそらくこの著者のほかの著作にあたらなければならないのだろう。
本筋と関係があるのかどうか分からないのだけれど、「柳田国男論」にも「丸山真男論」にも、共通して引き合いに出されているのが田山花袋であるのが面白かった。
田山花袋は、柳田国男とは友人だから、登場するのは納得できるのだけど、丸山真男の方にも登場するかと思って。
田山花袋は「温泉めぐり」という本を買って、読みかけたまま放り出している。
島崎藤村がフランスに行く前に一緒に温泉に行ったときのエピソードが書かれていた。「S君」となっているのだけれど、誰がどう考えたって島崎藤村なのである。これが、佐々木さんとかいう一般人だったらびっくりしてしまう。この私小説家の奇妙な伏字癖についてはいぜん丸谷才一が指摘していた。