聞き捨てならない

 昨日か、一昨日か、忘れたけれど、NHKで原発事故のニュースを見ていたら、最後に、ご家族が福島原発につとめる人のメールが紹介されていた。
 ラジオ深夜便じゃなし、裏のとれないメールを、ニュースで朗読するのは、少々異常なことに思えるが、報道姿勢に不審な点の多いNHKのこと、それは一旦おくとしても、問題なのは、その本文によると、現場で働いている人には、食料え支給されていないそうで、もし、ほんとうなら、危機管理のお粗末さには目を覆わざるえず、それでは、原発の事故に対処できないのは、むしろ当然で、NHKにメールするより、東京電力本社に抗議する方がよい。そうでなくとも、東京電力本社前では、抗議デモの動きが加速していくだろうと思う。
 しかし、そのメールでいちばん聞き捨てならないと思ったのは、「いままで原発のおかげで電気使えてたんだろう」みたいな部分。
 このあたり、家族も含めて、電力会社の意識は、やはり顛倒していると感じた。
 ラーメン屋にたとえるなら、ゴキブリが入ってるラーメンに文句を言う客に「うちのスープのおかげで、今までうまいラーメンが食えてたんだろう」と言っているの同じで、まったく意味がわからない。
 料金を取って電力を提供している以上、電力会社には、電力を安全に確実に提供する責任がある。そのために、原子力を選択するか、太陽光にするか、地熱にするか、風力にするか、それはまったく電力会社の裁量で、誤った選択で取り返しのつかない事故を起こしたかぎり、東京電力には責任が生ずる。
 今回のような危機的な事故を、ホームドラマのレベルに引き下ろそうとするかのような、この感傷的なメールを聞きながら、天災と犯罪を曖昧にする、日本人の習癖は、昔から地震が多かったためではないかと、私は考えていた。
 日本人は、太平洋戦争についてさえ、まるで、天災であったかのように語る。そして、戦争の責任を確定しないまま、すでに、当事者の多くは世を去ってしまった。私は、まちがっても若者とはいえない年齢のはずだが、その私の親の世代でさえ、あの戦争の当時、まだ小学生だった。
 だが、時が経ったからといって、犯罪が天災には変わらない。誰が犯したかわからなくなったとしても、犯罪は犯罪でありつづける。その犯罪をまるで天災のように偽装するなら、それは古い罪に別の罪を重ねるだけだろう。
 私は、太平洋戦争で行われた残虐行為について考えるとき、やはり、どう考えても、私自身には罪がないと思う。だから、その残虐行為が、まるでなかったかのように繕って、私自身に罪を重ねることは、しないでおこうと思っている。
 ほんとうは、私たち罪のない世代が、それについて謝罪できればよいのではないかと思うこともある。罪のある世代は、おそらく謝罪さえできないほど惨めなのだろう。ただ、謝罪すべき相手も、すでにこの世にいない。
 今回の事故をめぐる東京電力や、関係官僚の対応を見ていて、なぜ、環境技術大国なのに、あえて原子力固執しつづけるのか理解できた気がする。
 それは、ほかでもない、その危険性によるのだろう。火力、水力、原子力は、その規模と危険性のために、専門的な管理を必要とする。これに対して、風力やソーラーパネルは、民間レベルでの運用が可能だ。電力会社や関係官僚は、‘管理’を失いたくないのだ。
 それは、ほとんど彼らの習性で、そのためには、国民の生命や経済を危機にさらすことにさえ、いささかの痛痒も感じない。原子力安全・保安院とやらの、馬耳東風な会見の表情も、私たちは見慣れてしまった。たぶん、丸山真男が、「権限への逃避」と呼んだのはこのことかと思いつつ、テレビに映る彼らの表情を見ている。