「セシウムさいた」問題

knockeye2012-05-27

 今日はどこにも出掛けず、古雑誌古新聞の整理をしていたら、保存しておこうと取って置いた記事が出て来たので、メモ代わりに丸写ししておく。神奈川新聞の2012年4月2日付。
 詩人 アーサー・ビナードに聞く

 さいたま市で3月10日に予定されていた「国際女性デー埼玉集会」(事務局・埼玉県教職員組合)が、詩人アーサー・ビナードの講演タイトル「さいたさいたセシウムがさいた」に抗議が相次ぎ、中止になった。タイトルに込めた意味と、言葉を通して考えなければならないことを本人に聞いた。
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 詩人の仕事は、現実を直視しながら、言葉の技術を駆使して、本質を手渡すことだと思う。
 今、東京電力副島第一原発から放射性物質が大量にばらまかれた現実を見つめなければ、未来につながる詩をつくり出すことはできない。どうしてこんな現実になってしまったのか、問題の核心をついて、嫌な気持ちをみんなと共有して、どうすべきかを考えたい。
 講演に学校の先生が多く参加すると聞いて、教育の問題を話そうと思った。出発点は、戦前の国語教科書、いわゆる「サクラ読本」。「サイタ サイタ サクラ ガ サイタ」で始まり「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」と続く。みんなを戦争に駆り立てた教科書だ。
 原子力も、子どもたちに売り込む道具として「わくわく原子力ランド」といった副読本が学校で使われてきた。軍国教育と基本は変わらない。
 各地の原発周辺の桜を毎年観察して放射性物質の影響を調べている市民団体「サクラ調査ネットワーク」も紹介したかった。今年の調査は大変な意義を持つことになってしまった、と。
 講演タイトルは、教育と桜の話に今の時代を重ね、「さいた」に原発が地域の和を「裂いた」という意味も込めたものだ。ただ、「サクラ読本」があまり知られていないことは気付かなかった。チューリップの歌が浮かんだ人も多いらしい。ぼくの作った言葉が、思わぬ方へ行ってしまった。
 詩は、官僚の説明言葉と違い「みなまで言うな」が原則。受け手が思考と想像を広げて、自分で答え探しに行くための「疑問符」になる。言葉は理解を深めるきっかけ。講演を中止にして、そのプロセスを最初から拒否してしまうと、社会は変えられない。
 本質を捉えた言葉というのは必ずしも心地よいとは限らない。例えば、福島がカタカナで書かれることが嫌だという人がいる。ぼくも嫌だ。でも避けようとは思わない。カタカナの広島、長崎と同じように、放射性物質で痛めつけられたという現実があるからだ。嫌だと言って閉じこもっても、現実は変わらない。
 「嫌なものにふたをする」「縁起でもない話を聞かないようにする」−。それができる時代はとっくに終わっている。
 英語に「SHOOT THE MESSENGER」という言葉がある。嫌な知らせを伝える人を撃ち殺すという意味だ。原発事故の前から、原発の危険な本質をずっと語ってきた人はいる。でも、発信の場から締め出されていた。そのからくりはメルトダウンしたけれど、今は圧力をかけて撃とうとする。
 言葉の向こうに何が見えるのか。縁起でもない言葉が現実を表していたら、言葉じゃなくて現実を変えないといけない。嫌という気持ちを原動力にしてほしい。