「苦役列車」「きことわ」

 東京電力が、被災者の頭上に、死の灰をふりまいている、このありさまを見て、世界各国が続々と、自国の原子力政策を見直し始めた。
 1970年代、ホンダが、アメリカの厳しい環境規制をクリアして見せたとき、世界の自動車メーカーは、それを範としたものだった。
「日本を見ろ、誰もできないといっていたことを可能にしたじゃないか」と。
 ところが、今は、
「日本を見ろ。200兆円の借金のすえに、残っているのは、無駄なダムと道路、地震の巣の上に原子炉立てて、死の灰かぶって、ろうそくで暖をとってる。ああはなりたくないねぇ。」
と、いわれているわけだ。
 来年あたり、ひっそりと、G8から姿を消しているんじゃないか。
 先日、「官民そろって推し進めてきた原発立国・・・」という新聞記事を紹介したとき、「少なくとも、私は、そんなもの推し進めていない」と書いたが、よく考えてみれば、マスコミが‘官民’という、その‘民’に、私は含まれていないにちがいない。私は‘民’ですらないのだった。この国で‘民’というのは、市民のことではなく、既得権益のことでしかない。その意味では、民主党とは、よくできた名前だ。
 代替エネルギーの普及を妨げてまで(太陽発電パネルの生産量は、すでにドイツに抜かれた)、あえて、原子力発電を推し進めてきたからには、その安全性を国民に訴えてきた‘官民’には、今回の地震の規模を言い訳にする権利はない。
 官でも民でもない私は、原子力発電が安全だなんて、ウソに決まっていると思ってきた。一方で、安全を主張する意見もあったのだろう。阪神淡路大震災のとき、震源の真上に立ちながら微動だにしなかった明石大橋は、震災で自ら安全性を証明して見せた。原子力発電にとって、今回のことはそれと同じチャンスだったはずだ。しかし、答えはもう出た。勝負はついた。議論に、もはや何の意味もない。
 結局、信頼に値しないものは、信頼を得られない。信頼を積み重ねるより、ウソで失敗を誤魔化すことを選ぶのは、既得権意識があることと、競争原理がないことによるだろう。
 繰り返しになるけれど、戦略を間違えなければ、今年は、代替エネルギー元年になり得る。太陽光発電風力発電が一気に普及すると思うし、そのことは、この国の未来のために、望まれることだと思う。
 勝てるときに、戦うべきを戦うのは、正しいことだと思う。もちろん、代替エネルギーが、信頼に値しないなら、同じことだけれど。
 「苦役列車」と「きことわ」を読んだ。
 「苦役列車」は、冒頭の「曩時」が、まずこの小説の全体のトーンを決めてしまって、あとは、安心して読めてしまう感じ。その安心が、いいのか悪いのかっていう疑問は、脳裏を掠めるのだけれど。つまり、なんとなく、私小説のパロディーを読んでいる気がするわけだった。小林信彦とか、中島らもの短編集に、これがひとつはいっていたら、間違いなく私小説のパロディーだって思うはずなのだ。
 写実の確かさが魅力的で、それは、どんなものを書くにせよ、絶対条件のはずだから、独特の語り口とあわせて、これが噺家だとしたら、間違いなく真打ちの値打ちがあるから、これが芥川賞を獲るのは、なるほどと納得する。古今亭圓菊さんみたいな感じかな。
 「きことわ」が同時受賞なのも面白くて、こちらは、過去と現在、夢と現実が、木漏れ日のようにゆらゆらとする。うまいんだよね。こちらも、金出して聴いても、損したとは思わない噺家にたとえると、林家染丸さんかな。
 選評は、島田雅彦の選評が面白かった。芥川賞は、選評込みで読むのが楽しい。そういう遊びなんだろうな。