『明るいほうへ』

明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子

明るい方へ 父・太宰治と母・太田静子

この著者、太田治子は、私が日曜美術館を見始めたころのパーソナリティであった。その人が太宰治の娘であると知ったのはずっと後になってのことだった。しかも、小説「斜陽」のモデルとなった女性の娘さんだったと知ったのは、さらにそれよりずっと後だった。
太宰の小説「斜陽」はそのほとんどを太田治子の母、静子の日記によっている。ほぼ丸写しになっている部分も多いそうだ。
対幻想と自己幻想が、分かちがたく絡み合っている。それが「斜陽」という小説を魅力的にしている背景だったのだと思う。

・・・母が「いい人」という人は、あまりにも多かった。
 しかし太宰のことだけは、時として「悪魔」とも或いは「神さま」ともいった。
 「えらい小説家」の筈の太宰ちゃまをどうして「悪魔」というのか、その時の私にはまだ謎であった。
 「太宰ちゃまを信じて、私はいわれるままに日記をお渡ししたのよ。でも日記を渡す時は、悲しかった。子供のようにそれは大切にして綴ってきたものだったの」
 母は『斜陽』のもとになった日記のことを、何度も繰り返しそう話した。いつのまにかメルヘンは、リアルな物語へと変わっていくのを子供心に感じていた。
 「太宰ちゃまは、『悪魔』だったのね」
 母を慰めるようにしてそのようにいうと、急に母は大きな眼を更に見開いて怒りだすことがあった。
 「いいえ、神様だったのよ。『斜陽』の中に、私も生かされているの」
 そういいながら、決まって泣き声になった。私は、そのような母をみるのが息苦しかった。「悪魔なのよ」そう話す母の方が、明るく元気があって好きだった。私を叱る時と同じ大きな声であった。

ときには神であり、ときには悪魔であり、しかし、生身の男でだけは絶対にありえない太宰治という男と、太田静子はどう向き合って生きてきただろうか。
「あの男は正直で、真っ直ぐであった。素顔だった。
あの男ほど勇気のある奴は、古今人の歴史の中に稀である。・・・」
いつ書かれたか分からないものの、走り書きのメモが静子の古い手帖にあったそうだ。
‘素顔で、真っ直ぐで正直で、勇気のあった’のは、どう考えても、太田静子の方だと思う。『斜陽』のその後の日々を、人知れず小田原の社員食堂のおばさんとして生きてきた、そういう人生を私は無為だとは思わない。
長い年月の後には、太宰治は、結局、彼女自身のことであったろうし、だとすれば、その男が古今に稀な‘勇気のある奴’だったのは疑いないことに思える。
太宰治と太田静子の最後の対面の場面はとても印象的だ。たしか、『斜陽』のなかにも生かされていたように記憶している。
太宰はもう『斜陽』を書き終えている。しかし、静子は『斜陽』が書き終えられていることをしらない。同じ空間にいながら二人の恋愛の時制がずれている。しかし、読者はその時制がやがて噛み合うことを知っている。
もしかしたら少し過剰な演出かもしれないのだけれど、この場合そうならないのは、静子にとってそれがつづく『斜陽』の後の物語の始まりとなるからだろう。
太宰治の泥臭い部分がつよく感じられる。女にもてる男の秘密は男にはよく分からないが、太宰の場合は、いい男ということよりも、この泥臭さがポイントなのかなとも思った。