清水由貴子

週刊文春に、今年亡くなった人たちが特集されている。
このなかで私がもっとも印象深いのは清水由貴子
父親の墓前で、母親を車椅子に残して、自殺しているのを発見された。
この国の自殺者はことしも三万人を超えたとか。彼女の自殺は、顔の見えない三万人の自殺者の、ほんの横顔だが、垣間見させてくれた気がした。
おそらく、母親の介護に疲れて無理心中するつもりだったのだろうけれど、できずに自分だけが死んだのだろう。享年49。むしろ潔いといってよく、その潔さが悔しい。すべての自殺は潔いにちがいない。
同じ週刊文春に、先日ふれた問題について‘土下座’だの‘切腹’だのという文字が躍っている。(切腹てキミ)正義の味方はまた、切腹と土下座の味方でもあるらしいな。
むしろ、小さな記事だが興味深かったのは、普天間基地問題が日米関係を悪化させているという大新聞の報道に、当の米国大使館が呆れているという記事。
これまで戦後60年、アメリカの言うことはすべて鵜呑みにしてきた経験しかないために、フツーに交渉しているだけのことがキューバ危機くらいに見えるらしいのが情けない。
あるテレビキャスターは、小沢一郎に対して「この時機に中国に行っていいのか」つまり、アメリカを刺激しないかという意味らしいが、ほんとにそう言っているのをたまたま見て驚いている。そりゃアメリカ大使も呆れるだろう。
イラク戦争のときは、その同じ口で小泉純一郎のアメリカ追随を批判していたのだから、日本のマスコミって言うのはいったいなんなのか?
今度、元モーニング娘。紺野あさ美がテレ東の女子アナになるそうだが、彼女個人のことはどうでもよいとして、テレビ局が報道に向かう態度はやはりすこしおかしい。
女子アナという存在には、日本の職業のあり方のおかしさが凝縮されている。
たとえば、誰かがテレビのアナウンサーになりたいとする。どうすればなれるのか?アメリカなら大学でジャーナリズムの学位をとり、ジャーナリストとしてのスキルを身につけるのだろう。
ところが日本では大学でミスキャンパスか何かに選ばれるのが一番の近道で、職業人としてのスキルは、別途、アナウンサー学院か何かに通うことになる。実際のジャーナリストとしてのスキルは、各テレビ局に入社してから身につけることになる。したがって、彼女のジャーナリズムは社会的な普遍性を持たない、各テレビ局の色に偏向したものにならざるえない。
各テレビ局の関心は、ポジティブには視聴率、ネガティブには監督官庁に向いている。結果、マスコミの報道は、ポピュリズムと官製報道のみということになる。
村上龍が指摘していたが、日本の場合、職業の訓練を就職後に行う‘on the job training’が一般的で、このことが会社べったりの労働風土を生み、企業倫理を低下させ、正規非正規の格差を生む最大の原因になっている。
女子アナの例にもどれば、もし、アメリカのように大学でジャーナリズムを学位をとってテレビ局に就職していれば、言い換えれば、ジャーナリストを職業にしてから、報道の職場についていれば、会社が間違ったことをいえば‘間違っている’というだろう。
日本の場合は、報道の職場についてからジャーナリスを職業にするのである。順序が逆というか、端的に言えば、ジャーナリストといえる人は事実上いない。単に‘おしゃべり好き’の人としかいえないと思う。