『Black Box』読みました

Black Box (文春e-book)

Black Box (文春e-book)

 山口敬之は、レイプの常習犯であったらしい。と、警察官が推測しているが、その可能性も確かにあると思う。
「パンツくらいお土産にさせてよ」とか
「今まで出来る女みたいだったのに、今は困った子どもみたいで可愛いね」
とか、詩織さんはこの時点で、膝の関節がずれて歩行困難になっているのに、よくこんな気持ちの悪い言葉が吐けるものだ。
 安倍政権の異常さは、総理についての本を書かせる人物が、こういう事件を起こしたとなった場合、その時点で、執筆も出版も取りやめにするのが、普通の権力者だと思うのだ。
 ところが、安倍政権は、逮捕状まで出ている警察の捜査をストップさせてしまう。逮捕状が出た事実はなしにはできない。ということは、誰かが逮捕を取りやめさせたことは、いずれ衆目の知るところになる。にもかかわらず、そんな人物に、総理の伝記のようなもの(読む気もないので知らないが)を書かせる。
 そこに、何かを感じないものだろうか?。倫理観は期待しないが、少なくとも危機感は感じないものだろうか?。これは奢りとかいうこととはレベルが違う。何か人間的な欠陥を見てしまう。
 桜の会をめぐる文書の破棄、あるいは、検察官の定年延長をめぐるゴリ押しなどを見ていると、ノモンハンで、中央からの命令書を勝手に書き換えて、シベリアに兵士の屍骸の山を築いた、辻政信の異常さを思い出してしまう。
 レイプ犯をかくまう政権はまずい。ところが、そのレイプ犯がTBSのワシントン支局長なので、マスメディアもこれを問題にしない。
 伊藤詩織という人は、海外で苦学してジャーナリズムの学位を取ろうとしていた人で、そもそもの志がジャーナリズムにあったために、こういう本が書けたのだと思う。大変な勇気だと思う。普通は書けない。男が読むのでさえ辛い。だからこそ、山口敬之のようなものがレイプを常習できる。
「「被害者は白いシャツを着て、ボタンを首元まで留めて、悲しそうにしている」という、誰かが作り上げた偶像を壊したかったのだ。」
という意志の強さには、その会見に至るまでの苦労を読んだ後には、感服せざるえない。妹さんには
「お姉ちゃんの言ってることはわかる。これが大切なことで私や私の友達のためだっていうこともわかる。でも、なんでお姉ちゃんがやらなきゃいけないの?」
「英語で会見するなら想像ができる。でも日本語で日本のメディアだけにやることはしないで」
と言われたそうだ。
 この出版の時点では、まだ妹さんと話をすることも拒否されている状態だそうである。この妹さんの気持ちはわかる。普通、人はそれくらい弱い。立ち向かえない。おそらく、伊藤詩織さんも同じように弱い。この本を書き上げられたのは、それまでのジャーナリストとしての日常的な訓練があったからだと思う。書き方を身体が覚えていた。それともうひとつは、英語というもうひとつの言葉があったからだろう。これは私の推測にすぎないが、とにかくこの勇気には頭が下がる。
 それから、この本には、「意外にも」というとおかしいのか、おかしくないのかわからない時代だが、まともな警察官、まともなマスメディア、まともな弁護士が、少数ながら出てきて、その度に救われる思いがする。警察の組織全体、マスメディアの業界全体は、どうしようもないゴミ溜めみたいなものなのはいうまでもないし、この本にも、その例証が溢れているのだが、しかし、最初に捜査にあたって逮捕寸前まで持ち込んだ高輪署の警察官は、実のところ、警察官として当たり前のことをしているだけなんだが、当たり前の警察官がひとりはいると思うだけでほっとする。

「「週刊新潮」の記者に、メディアに対して私の会見に関する報道自粛を求める動きが、水面下で拡がっているらしいと話すと、彼は軽い調子で、「ああ、知ってますよ」  と言った。「だから何?」というようなその姿勢に、私はとても勇気づけられた。」
とある。
 こういう無名(なのかどうか知らないが)の人たち、表に出ない人たちが日々積み重ねている、まともな当たり前な仕事が、この世のまともを支えている。
 海外で苦労してジャーナリズムを学んでジャーナリストを目指している伊藤詩織さんをはじめ、この世に、意外とまともな人たちがいると分かったのがむしろ一番の収穫だった。
 安倍晋三麻生太郎小沢一郎鳩山由紀夫、と、この何十年かの政治の停滞は、これらのspoiled kidsの責任が大きい。二世議員の被選挙権について、何らかの制限を検討すべき時だと思う。