川喜田半泥子

knockeye2010-02-12

このごろはようやくわたしにもやきものにテイストが出てきた。
むかしは美術館で見かけても「へぇ・・・」と思うだけで素通りしていたのだけれど、最近は、これは好きだ、これはあまり好きではないという風に感じるようになってきた。
漫画「へうげもの」の影響もあるし、いつぞや絵を見に行ったついでに、本阿弥光悦の黒楽茶碗「雨雲」と赤楽茶碗「峯雲」に魅せられたことも大きい。
昨夜、NHKで古田織部が特集されていて、「へうげもの」の作者、山田芳裕も顔をさらして一言していた。
千利休古田織部をはじめ、信長、秀吉、家康など、戦国の群像をひと串に刺しつらぬいた、山田芳裕の目が素晴らしい。千利休については、本も読んだし、映画も見たが、「へうげもの」ほどに時代の全体像を見渡したものはないだろうと思う。
横浜そごう美術館に、川喜田半泥子の展覧会を見に行った。
入口の狛犬一対を観た一瞬で、わたしはこの作家を信頼した。
とくに阿形の狛犬が素晴らしい。ふだん、実際にどこかの天神様を守護しているものだそうだ。これから見てまわる作品が素晴らしいに違いないという期待にわくわくさせられた。
「初音」と銘して、半泥子がはじめて轆轤を試みた茶碗が展示されているが、ホントかと思うほど素晴らしい。このあとこれを超えるものが出てくるのだろうかと心配したほどだが杞憂だった。
わたしが気に入ったのは、まず、
「酔どれ」と銘した志野茶碗。
半泥子自身は酒が弱かったそうだが、この茶碗は、ほろ酔い加減で手にとって、惚れ惚れと眺めたい気分のものと見えた。白い釉の下にうっすらと見える赤い肌の景色があたたかい。
図録によると(今回は図録を買った)、「酔どれ」という銘は高台の安定が悪く、置くとゆらゆらすることからつけられたそうだ。
人手に渡っていたこの碗に、後に再会した半泥子は、
「御割愛の節は私に御割愛ねがいあげたく・・・」
と所蔵家に書き送っている。
「アレはお尻のグラツク所が面白く・・・」
と愛着のほどをのぞかせている。

志野茶碗のほう(灰釉にも同じ銘のものがある)の「不動」も気に入った。
箱の蓋の裏に
「松山仲田家において戦災に逢いたるこの盌、かえって火色を加え趣を増す。よって不動という」
と書かれている。

「おらが秋」という、一見志野には見えないざらざらした肌の(カセたというらしい)茶碗もよかった。

「夜寒」という灰釉茶碗もよかった。ひと拭きした指の跡に、外の寒さを思い出す気がした。
(今日は本当に寒かった。北陸に長く暮らしたものとしては、どうしてこの寒さで氷雨が雪にならないのか不思議。雪になってくれた方がまだあたたかいのに。)

このほかに、水差し、小皿、香合にもよいものがいっぱい。
以前紹介した五島美術館所蔵の「破袋」に触発されたという水差しもあった。その名も「欲袋」。
また「雪のくづや」と名付けられたちいさな香合には、この作家の詩情の細やかさがあらわれていると思う。

半泥子は多才で、書も絵も写真もものした。
絵は仙がいに私淑したというが、わたしのみたところ、仙がいよりもよい。
仙がいの絵には、近代の目で見るせいか、すこし自意識の臭みを感じないこともないが、半泥子の絵には、不思議にそういう傾向がまったく感じられない。
古田織部が戦国武将であったように、川喜田半泥子も銀行の頭取としての人生があったからかもしれない。
そういう人が仕事の傍らに陶芸に打ち込むとき、そこに‘近代的自我’などという臭みをもちこまなかったことはむしろ納得しやすい。
水墨画の多くに賛が添えられている。というか、書の挿絵程度に絵が描かれているものも多い。書は伸びやかでとてもよいのではないかと思う。
明治以後の日本の絵があまり評価されないのは、西洋コンプレックスの裏返しの国粋的アカデミズムが猛威を振るったことも原因のひとつと考えていいだろう。(もちろん、マーケットの消失ということも大きい。)
半泥子はアマチュアであることで、その荒波を避けることが出来ただろう。
マチュアリズムの裾野をもたないプロは、あっという間に滅びる。
プロは広大なアマチュアリズムの氷山の一角であるべきだ。本物のプロはつねにアマチュアリズムを自らの源泉としている。アマチュアリズムに畏敬の念を持たない類のプロがいるが、ほぼ例外なく、プロに憧れているだけ。文字通りのニセモノである。
半泥子は、素封家の生まれとしてめずらしくないか知れないが、幼年期を複雑な家庭環境で過ごしたようだ。彼を実際に育てたのは、実母ではなく祖母だった。
その祖母が半泥子に戒めとして当てた手紙を、半泥子は晩年に書き写して長女に送った。
「政子遺訓」がそれだ。やや長い文章ではあるが、その前に立ち止まって全文を読んでみるとよい。ぐっとくるものがある。