「ゴールデンスランバー」再考

knockeye2010-02-10

今週の週刊文春によると、小林信彦が「ゴールデンスランバー」を観たそうだ。単純にファン心理としてうれしい。
音楽にまったく詳しくないのでちがうかもだけど、斉藤和義の‘ゴールデンスランバー’はパンクだよね?
「フィッシュストーリー」もパンクで、「アヒルと鴨・・・」がボブ・ディラン。
ところで、主人公たちが大学時代に作っていたという設定の‘ファーストフード研究会’というサークルだけれど、そこに非常に限定的な時代のリアリティーを感じてしまう。
すくなくとも70年代以前には存在したとは思えないし、阪神淡路大震災オウム事件の1995年以降にもありえない気がする。
あの映画は‘ファーストフード研究会の後日譚’でもあるわけだ。
80年代後半から90年代にかけて青春をおくった人が、その後経験した歳月は、心象風景として、あるいは、寓意として、この「ゴールデンスランバー」そのものではないのかと思えてならない。
そういう意味の時代のリアリティーこそが、あの映画の奥行きを広くしていると思う。
たとえば、濱田岳が演じている通り魔など、‘通り魔’という存在をあれほど身近に描けた映画は他にないと思うのだけれどどうだろう?
大量殺人犯を描くというとき、キャラクターに説得力を持たせようとすると、たとえば、「羊たちの沈黙」のレクター博士のように、わたしたちとはちがう異形のものとして描かれるのではないか。
しかし、この「ゴールデンスランバー」の大量殺人鬼は、もしかしたら、主人公の青柳が彼でありえたかもしれない、あるいは、わたしたちが彼でありえたかもしれないと思えるほど身近に感じられる。裏返せば、わたしたちが大量殺人犯で‘ない’のは、ホンの偶然にすぎないと思わされてしまうということ。
それは、この殺人鬼が、‘ファーストフード研究会’などという大学のサークルが存在しえた時代の、合わせ鏡のように存在しているからではないかと思うのだ。
もっといえば、ゲーム好きの整形アイドル、偽装入院の患者、その他、こまごまとした登場人物のすべてに同時代のリアリティーを感じる。
スマステーションに堺雅人がゲストに来ていたとき、司会の香取慎吾が「ゴールデンスランバー」を絶賛して、「エンターテインメントに癒される」と表現していた。
あれだけ人が死にまくる映画に‘癒される’のもおかしいようなものだが、それは、時代の理不尽さを映し出している、その正確さのためではないかと思った。